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見えない時間を感じる

毎日、世界中ですばやいコミュニケーションがとられている。「送信」を押した瞬間にそれは「言った」ことになり、相手は「受け取った」ことになる。

メールやチャットにはなるべく早く返事をして、何事もなるべく早く試し、なるべく早く結果を得る。そうできることが、人間として優れている証の1つとされているかのように感じる。

もちろん、こうは考えない人も多いはずだ。じっくり時間をかけること、「寝かせる」ことに価値を見出す人もいる。

しかし地域差や個人差はあれど、数千年、数百年、いや数十年前と比べても人間社会の時間感覚は速くなっているのだと思う。


そう感じたとき、私は目を閉じる。そして手元にある一切のものから遠い場所で流れる時間を想像してみるのだ。


地球をテニスボール大に縮めて掌に置くとすると、そこから2mの距離にあるビー玉が月だという。金星は、220mの距離にある別のテニスボール。

ピンポン球サイズの火星、プチトマトサイズの水星もあり、私たちの生命に欠かせない太陽は、なんと二階建て住宅ほどの大きさの玉。掌からの距離は730mになる。

この中で一番近い月へ行くには新幹線の速さでも53日かかり、太陽までは57年かかるのだという。そしてもちろん、太陽よりも遠い星がたくさんある。

もしこんな遠いところに用事があって出かけるとしたら、私はどんな時間感覚をもつのだろうか。「あっ、あの件は午前中に済ませておきたいな」「あの人、返事くれるって言ってたけど遅いなあ」「バスがなかなか来ない」と言っている私は、いったい何を早いと思い、何を遅いと思うのか。

想像もできない時間を想うことは、無駄なことではない。想像もできないからこそ、その果てしなさに慄き、打ちのめされ、人間社会という小さな小さな枠のなかで生きる自分を俯瞰できるのだろう。

もちろん俯瞰したからといって、明日から太陽行きのバスに乗るわけではない。今日も明日も、願わくは明後日も、私は小さな人間社会で生きる。小さいながらもさまざまな感情が動いて、身体が忙しく変化して、頭を抱えたり天を仰いだりしながら日記をめくったり時計を見たりするのだ。

人間が取り決めた「時間」は、ただ取り決めたからあるというだけ。数字を与えて目で見えるようにしたからある、というだけなのだと思う。しかし時間は、目に見えるものだけではない。数字を与えることはできても、体験しようのない果てしない時間というものがある。


小さな社会の小刻みな数字に疲れたときは、見えない時間を心に宿したい。いや、心のほうを見えない時間の中に宿したい。漆黒の空間に溶け込んで、どこまでもどこまでも遠くに運ばれていくさまを感じたいのだ。


こんな気持ちを抱かせるのは、不思議と科学に関する本や映画であることが多い。文系人間と名乗ってきた私だけれど、今は学生のときほど科学の話題が苦手じゃない。むしろ日頃感じていることのヒントはそこにあるのではないかと思うくらいだ。


地球やほかの星の大きさ、遠さについてはこちらから教わった。今火星にいる探査機、パーサヴィアランスのことももっと知りたくなる本。



「科学奇譚集」であり、「詩集」ともいえる美しい本。どこかショートフィルムのような匂いも感じられる。毎晩1篇ずつ読むのが楽しみになった。


















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