サクラサクバレンタインデー

記念日を忘れる。彼もそんなに綿密に覚えている方ではないのだけど、私はもっと覚えていない。バレンタインデーもしっかり忘れていた。一緒に買いに行こうと提案してみたけど、特段期待していなかったらしい彼は、「あれば嬉しいけど(なくてもいいよ)」という感じだったので当日買った。帰ったら渡す。

私の手作りより何倍も美味しいものを、お金を出せば買えるのだから、手作りを渡す意味が分からなかった。気持ちだよ、というのは理解できるし、私も手作りを貰った時は嬉しいのだけど、買ったものをもらう時と嬉しさに差があるかと言われれば、天と地ほど、という訳ではない気がする。


人からもらうときには意識しないのだけど、自分がお菓子を渡すときは美味しさが保証されているものを渡したいと思うので、壊滅的な料理やお菓子を作る私に、そもそも手作りという発想はない。だから、手作りを渡してくれる人の気持ちが結構分からない。

「めちゃくちゃ自信があるから渡す」というわけでは多分なくて、「作ったからあげるね〜」というフランクさを持てるその性格が羨ましいなと思う。まあそういう明るさを持った人のくれる手作りお菓子、大体美味しいんだけれども。パーフェクトかよ。


どうでもいい話を思い出した。大学のとき、学科の誰かが誕生日の時は、ケーキを作ってくれる先輩がいた。そのグループの男子の誕生日のときは手作り、女子の誕生日は買ってきたケーキ、と言う感じだった。貰えるだけありがたいものだけど、「気合いの入り方が違う」という現実を差として見せ付けられると結構苦しいものがあるなと思った。良い先輩だったから、特に深い意図はないのだろうけど、その邪気のなさがより、格差を浮き彫りにして見えた。

もらえるものは手作りでも買ったものでも嬉しいが、いつもは買ったものだけど、今回は手作り、もしくはその逆のとき、貰ったときの気持ちに変化が起こるということか。

じゃあこれからの「がっかりハードル」が上がらないように、彼にはしばらく買ったものをあげちゃお、という選択をしてしまう自分。そうではない世界線の自分に期待。


大人になって、「手作りには何が入っているか分からない」という点で、購入したものをもらう方が安心、という考え方を知った。食べ物には安全性がついてくることが大事、という視点は、学生のときにもらった友チョコをバリバリ食べていた時には無かったなと思う。

学生のバレンタインデー、私が男子だったら辛いなと思うのは、「バレンタインチョコをもらえたか、もらえなかったか」を是が非でも意識させられることだ。もらえて良かったね、の裏には、もらえなくて残念だったね、がある。

私の性格で男子だったら多分もらえてないので、バレンタイン以外はもらえない状態が普通、という日々の状況で急に、もらえないことがおかしいと思わされるのは普通に悲劇だ。生きるのに必要のない悲しみだと思う。想像しただけで泣けてくる。

閉鎖的な空間で生きている、という事が付随的に悲劇を生んでいるので、「学校は勉強をするところだぞ」と心を強く持とうとしている学生全員、志望校に合格しますように。

不憫な旦那さんに全額寄付します。