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「聴くこと」と「対等であること」

(はじめに)

このnoteは、哲学者と一般人である私との往復書簡のようなやりとりを通して、ネット上での「対話」を試みたい&読者の皆様にも「対話」を提案しようというものです。今回は、哲学者の竹之内裕文さんからの返信を掲載させていただきます。

●早朝の路上で

 毎朝、大学まで歩きます。40分ほどかかります。一歩一歩の感触を確かめ、深く呼吸して、ゆっくり歩きます。雨上がりの朝には、樹木から葉の匂いが伝ってきます。

 毎朝、鳥たちのさえずりが聞こえます。足をとめて観察してみると、だいたい二羽で呼応しながら、飛びまわっています。鳥たちはとても楽しそうに見えます。なぜそんなに楽しそうに鳴き交わすのか。

 ときどき地面へ降り立つところをみると、それは朝食を探すコミュニケーションの一環なのでしょう。ただ餌を獲るためにしては、過剰なやりとりのように思われます。早朝の鳥たちは饒舌です。まるで朝を迎えた喜びを抑えきれないようです。

 この往復書簡では、まず稚子さん——このように呼ぶ理由は最後に述べます——から、「未知のものに向き合うためには、何が必要なのか?」と問いかけていただきました。それに対してわたしは、「未知のものに向き合う」を「未知のものと共にむき合う」と読み替え、「対話」が必要であると回答しました。「向き合う」に「共に」を加えたわけです。

 しかしわたしは、「未知のものと共にむき合う」というタイトルについて説明していませんでした。ご指摘を受けて、はじめて気づきました。簡潔に書こうと、字数にばかり気をとられていたようです。

 「未知のものと共に向き合う」とはどういうことか——漢字の「向き合う」とひらがなの「むき合う」を並列させると混乱を生むので、以下では、わたしも「向き合う」と表記することにします。今回はその解題から始めます。そのうえで、「対話」の条件として稚子さんがあげられる「聞くこと」と「対等であること」について、わたしの所見を手短に述べます。

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●あらためて〜「未知のものと共に向き合う」ということ

 人間には「ひとりの時間」と「共にある時間」がいずれも欠かせません。たとえばわたしにとって、早朝の道で足をとめて、「なぜ鳥たちは楽しそうに鳴き交わすのか?」とひとり問うのは、かけがえのない時間です。それでも相手に恵まれるならば、募る疑問を共有し、共に問いたいと願います。

 ここで相手Aが登場します。かりに野鳥の専門家としましょう。わたしにとっては未知の事柄も、Aにとっては既知の事柄です。Aが親切な人ならば、わたしの問いを愚問と片づけず、回答してくれるでしょう。一方にとっては未知だが、他方にとっては既知である事柄については、知っている人が知らない人に答えを教える(伝える)ことになります。

 次に、鳥たちが毎朝、さえずり合う理由を、(ありそうもないことですが)わたしが知っていたとしましょう。その場合わたしは、そもそも上のような疑問を抱くことがありません。わたしにとってそれは既知の事柄なのですから。Aとわたしはともに知っている人です。このような場合、疑問や問いが共有されることも、究明のための対話が始まるということもありません。せいぜいのところ、早朝の鳥のさえずりについてどう思うか、意見交換するくらいでしょう。両者にとって既知の事柄については、問いが立てられず、探究的な対話が生まれないのです。

 ここで、わたしの相手をBに替えてみましょう。Bもわたしと同様、野鳥に通じていないが、朝の鳥のさえずりに関心を抱いたとします。なぜ鳥たちは楽しそうにさえずり合うのか?その理由は、Bにもわたしにもわかりません。二人は共通の問いの前に立たされ、共同作業としての探究に赴きます。双方にとって未知の事柄についてのみ、問いが生まれ、共有され、探究が進められるのです。

 最後のケースが探究的な対話の基本モデルです。一方にとって、あるいは双方にとって既知の事柄については、探究的な対話は成り立ちません。双方にとって未知の事柄だけが共同的な探究の主題になります。「未知のもの」と「共に」向き合い、協力して探究を進めることができます。

 「未知のものと共に向き合う」という表現には、さしあたりこのような意味が込められています。では稚子さんは読み違いをされたのか。そうでもないのです。未知のものと共に向き合うためには、「あなた」と「わたし」が当の「未知のもの」を共有していなければならないからです。では「あなた」と「わたし」は、どのように未知のものと向き合い、それを共有するのか。未知のものとのそれぞれの向き合い方が、ここで問題になります。

 たとえば縁側に腰をかけて、庭の梅について話す場合、「あなた」と「わたし」の視線は梅の木に向けられます。梅の木が加わることで、「あなた」と「わたし」の二者関係が三者関係に転じます。「あなた」「わたし」「庭木」を頂点に、三角形を描くことができます。

 「あなた」と「わたし」は、すこし異なった座位から、同じ梅の違った側面に注意を向けます。二人の関心に応じて、目のつけどころも異なるでしょう。同じものを見ていながら、それぞれの着眼が違うから、梅の見立てがより豊かになる。二人がどのように向き合うことができるのか、それは各々が梅の木とどう向き合うかに応じて決まる。「未知のものと共に」という各々の構えが、二人が「共に向き合う」かたちを定めているのです。

 対話は縁側モデルをとります。じっさいここで「梅」を「問い」に置き換えれば、それは対話する関係そのものです。共通の問いをめぐって、「あなた」と「わたし」の間で、探究的な対話が進められる。問いがなくても、会話や討論(意見交換)はできるでしょう。しかし対話は、問いがなければ成立しません。

●「聴くこと」について

 具体例をあげて、丁寧に説明しようと心がけたつもりです。その分、長くなってしまいました。「聞くこと」と「対等であること」に移りましょう。

 対話の条件として、稚子さんは「聞くこと」をあげられます。表記こそ異なりますが、わたしも「聴くこと」なくして対話は成立しないと考えます。かりにだれも耳を傾けなかったとしたら、なにを語ろうと独白(モノローグ)になってしまうでしょう。では「聴く」とは、具体的にどういうことなのか。対話に際して、人はなにを聴くのか。そもそもなぜ聴くのか。

 これらの問いに、稚子さんはどのように回答されるでしょうか。「相手からのレスポンス(それは言語に限りませんが)があることが前提」と書かれているところをみると、聴くのは「言葉」に限定されないのでしょうか。またそこでは、なにが聴く動機を与えてくれるのでしょうか。「私はこう思うけれど、あなたはどう思うの?」と相手の見解を知ろうとする意欲は、どこから生まれるのでしょうか。

●「対等であること」について

 対話が成立するためには、参加者が「対等であること」が必要だ。わたしもそのように考えます。現にわたしたちは対等な人間関係を志向し、「稚子さん」と「裕文さん」と互いを呼び合ってきました。この往復書簡でも、これまでの流儀を踏襲したいと願っています。

 「対等であること」の心地よさは、わたしも知っているつもりです。しかしわたしたちの社会では、「人間は対等である」という思想が共有されていないように思います。稚子さんが指摘される「アンバランス」な人間関係は、それを反映したものといえるでしょう。

 かりに人間が対等でないとしたら、どうして対話の場で「対等であること」を要求できるでしょうか。たしかに対等な関係がないと対話は成立しません。しかしそれを理由に、「せめて対話の場だけでも対等に」と求めることは、ご都合主義的ではないでしょうか。

 ここで掘り下げて考えてみませんか。すべての人間は、本当に「対等」といえるのか、なにに基づいて「対等」だといえるのか。わたしたちは、これらの問いに対する回答を用意しておく必要があります。さもないと対話における「対等な関係」は、一時的なもの、便宜的なものにとどまってしまいます。

●おわりに

 できるだけ簡潔に書いたつもりですが、わたしの文章もそれなりの分量になってしまったようです。今回は「未知のものと共に向き合う」という言葉に解説を加え、「聴くこと」と「対等であること」を、さらに掘り下げて考えることを提案しました。

 最後に、「承認欲求」にもふれておきましょう。「自分をわかってほしい、認めてほしい」と欲求する当人にとって、「自分」は本当に「未知のもの」なのでしょうか。「未知のもの」を「わかってほしい、認めてほしい」と他者に求めても、その要求は叶えられることがありません。しかし本当に「未知のもの」ならば、対話を通して他者とともに探究することはできます。ただその場合、他者が共有できるかたちで、問いが設定される必要があります。

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