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やさしい日本語に感じる違和感

2月13日の日記。

ラジオ英会話を聴いて、弁当を作って出勤。かばんが重い。どう考えても重すぎる。必要そうなものをなんでもかんでもかばんに入れるから良くない。

10時半に出勤。90分×3の授業をして帰ってから、オンライン授業をする。くたくただ。

それで最近、「やさしい日本語」について考えている。この「やさしい」っていう言葉がひらがなで書かれていることがミソなんだと思う。わたしはこれをずっと「易しい」だと思っていたんだけど、実は「優しい」なんじゃないかと思えてきた。

日本語教師養成講座でも「やさしい日本語」に開眼する人は多くて、結構インパクトのあるコンセプトなんだと思う。

わたしが感じるのは、外国人(非母語話者)なら誰でも「やさしい日本語」じゃないということ。日本語は誰と話すかで話し方が変わる言語だから、距離のある人と親しい人、子どもか大人か、その区分に母語話者かそうでないかが入るだけなんじゃないか。

だから、その「非母語話者」と話すにも他と同様、グラデーションがあるわけで「やさしい日本語」はこうです!と確立されてしまうと、どんな人にでもやさしく話しかけたりしないのだろうかと心配してしまう。

全くゼロの人はやさしい日本語でも通じないし、何年も勉強した人はどんなことでも通じたりするし、なんなら自分よりもずっと日本語に詳しいことだってある。

だから、話す相手を「外国人だから」とか「日本語の非母語話者」だからと決めつけないで、まずは思い込みを外して話すことが大事だと思うのです。

だから「警報」を「危ないからお知らせします」などは日本語教育の領域なのではなくて、義務教育の国語で日本語話者に対して教えるべきじゃないのかなあというのがわたしの考えだ。

それよりも良くないのは「優しい日本語で話してあげないと」「優しくしてあげないと」という気持ちと行動。気持ち自体はいいのだが、それが生きすぎて押しつけになることもある。

誰かに対して「優しい」気持ちは無意識で「良かれ」と思っているから、「対等」より「上下」で考えてしまいがち。それは「押し付け」の可能性もあるし、その人の「自由」を奪うことだってあるということに自覚的であらねばと日々思っている。

そして斉藤和義の「やさしくなりたい」を聴く。


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