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エッセイ 牛若丸

 私は2歳になる前に、ポータブルの蓄音機を大人の仕草をまねて器用に扱えるようになった。

 同時期にすでに大人の対局を見て、誰に教わることもなく本将棋の駒の動きやルールを覚えたので、この程度の聡明さは父母のあいだではさほど驚くに値しなかった。
 両親にとっては私が初めての子供だったため、特に私だけが利発だという思いに至らなかったのである。

 祖父母と伯父叔母が同居する尼崎市杭瀬の家には、奥の一番陽当たりが悪い二畳の間に、分厚い、落とせば割れる材質のSP盤がたくさん立てかけてあった。

 SP盤というのは、LP盤レコードと同じ直径30センチだが、LP盤の33回転に対して78回転なので非常に速く回る。そのため最大収録時間は片面およそ5分前後で、通常一曲しかはいらない。
 ちなみに後に一般化したLP盤では、裏表で1時間近くの録音が可能になった。

 二畳の間で保管されていたレコードには、ジャケットなどは備わっておらず、ほとんどがむき出しで棚に立っていて、全部で2百枚近くはあったと思う。
 ほとんどが祖父の持ち物で、歌謡曲だけでなく洋楽もクラシックもあった。

 もともと祖父は明治の男としては珍しくヴァイオリンを奏で、茶道や華道にも長けた風流人だった。それなのに父は小指の爪の先ほどもその流れを受け継がず、祖父のセンスは父を飛び越して私に出た。
 おそらくこれを隔世遺伝というに違いない。私にとっては実にありがたい現象である。

 沢山あるレコードの中から私は、字も読めないし、ジャケットの背文字もないにもかかわらず、なんのためらいもなく東海林太郎のレコードだけを器用に抜き出した。

 実際に大人が同じ作業を行おうとすると、一枚ずつ取り出して、レコードの中心あたりに書かれた細かい文字を読んで歌手の名を判別する必要がある。

 なぜそれを幼児が瞬時に見極めるのか……親戚が寄ってたかっていくら検証しても、結局最後まで原因がわからなかった。

 当の本人にたずねると、勝手に指がそれを選ぶと答えたらしい。

 この事実が久保家に伝わる私の七不思議のひとつとなり、後々まで法事の度に面白おかしく語り継がれ、私は子供ながらに辟易とした。

 さて東海林太郎を抜き出し、それを蓄音機に載せ、針を降ろして聴く孫の知能に歓喜した祖父は、私の2歳の誕生日に童謡のレコードを買い与えようとした。

 近所の小さなレコード屋の主人は祖父の親しい友人だったが、その店には祖父の目にかなう品がなかった。
 そこで祖父は大阪梅田の阪神百貨店までわざわざ出かけて、ようやく気に入った童謡が吹き込まれた、同一のシリーズである45回転のシングル盤(EP)を数枚買って帰った。

 それが《コロちゃんレーベル》だった。

《コロ》というのは、コロンビアレコードのことである。

 私が当時よく「チイチイパッパ」と口ずさんでいたので、《すずめのがっこう》は、祖父にとっては必須であった。その他には《めだかのがっこう》《かわいい魚屋さん》《汽車ポッポ》などがあった。

 それらの中で、レコードが摺り切れるほど何度も私が聴いたのが《牛若丸》だった。元は尋常小学校の唱歌だが、作詞も作曲も不詳である。 

 針を降ろすと、まずは悲しげな横笛のソロが流れて来る。これがやたらと暗い。
 けれどもそのあと一転して明るくリズミカルなイントロが始まり歌に続く。
 1番は少年少女の合唱である。
 
   京の五条の橋の上
   大の男の弁慶が
   長い薙刀 振り上げて
   牛若めがけて斬りかかる
 
 短い間奏のあと、今度は男児のソロ・ボーカルになる。もしかしたら女子の声かもしれないが……とにかくこのソロの声が鮮明かつ伸びやかで実にいい。
 
   牛若丸は飛びのいて
   持った扇を投げつけて
   来い! 来い! 来いと欄干の
   上へ上がって手を叩く
 
 大男の弁慶に対し逃げるのではなく迎え撃つ姿勢を示し、欄干の上から、逆に弁慶を煽って挑発する流れに、私の心は牛若のように跳ねて踊った。
 
 そこからやや長めの軽快な間奏が続き、牛若と弁慶の格闘を十分に思い描かせ、ふたたび1番と同じ児童合唱に戻る。
 
   前や後ろやみぎひだり
   ここと思えば またあちら
   燕のような早業に
   鬼の弁慶 謝った
 
 最後は非常に短い後奏であっけなく終了する。思わず「殺そうとまでしたのに、謝って済むようなことか?」と、つっこみたくなる。

 この歌が幼い私の魂を完全に掴んで二度と離さなかった。
 
 そしてついにレコードが劣化し、前奏の横笛が何度も同じところでピーヒャララ〜と繰り返してそこから先に進まなくなってしまった。そうなれば、針が飛ぶ少し先の溝に、ふるえる手で慎重に針を降ろしなおさねばならない。

 余談だが、祖父の家の玄関の前を通る一方通行の細い道は、昔の西国街道の流れで、尼崎でも有数の非常に古い道であった。
 地元にはその昔、常盤御前が通ったと伝わっている。いうまでもなく常盤御前とは、牛若丸こと源九郎判官義経の母である。

 ついでに、祖父が杭瀬の家に移る前に住んでいた家は、同じ尼崎の大物にあったが、こちらは義経と弁慶が頼朝から逃げて船に乗った大物浦として有名である。

 こうして私が本格的に歌や音楽に興味を持ったきっかけをさかのぼれば《牛若丸》に行きつくのだ。そしてそのきかっけをつくったのは、やはり歌や音楽を愛した祖父だった。

 初孫の喜ぶ顔見たさに、例年に比べて格段の猛暑の盛りに無理をして買物に出かけた祖父は、そのわずか2日後の、昭和37年8月16日未明、眠ったまま息を引き取った。
 そばに居たはずの祖母が気付かなかったほど安らかな往生だった。

 祖父は70、私は1ヶ月前に2歳になったばかりだった。

 死因は"脳溢血"、今は"脳出血"と言うらしい。元々久保の血筋は、高血圧が多かった。

 実は2019年、私が59歳の秋に、横浜で猛烈な頭痛にみまわれ、その時はなんとかおさまったのだが、山口に帰ってから脳外科でMRIをとったら、脳出血の寸前だったと診断された。

「死んでいてもおかしくなかった」と医師に言われたが、実感はなかった。

 それでも、ひとつ間違えていれば、祖父と同じ病で人生を終えていたことになる。遺伝とは、実に恐ろしいものである。

 結局、半世紀を経て、祖父が命がけで孫に託したレコード、"牛若丸"から、多くの歌がうまれた。

 果たして、祖父は私が書いた歌を、一体どんな顔で聴いてくれているのだろうか?

 私があっちへ行けば、まず最初に祖父にそのことを尋ねようと、ずっと前から決めている。
   了

  
 
 

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