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エッセイ 瞽女さん

 秋に右眼を手術してなんとか見えるようにはなったものの、今度は左目の負担が増して最近は両眼とも何だか具合が悪い。

 いざ自分の肉体に不具合が生じると、精神というものは、なかなか敏感なもので、すぐに冷静さを欠き健康な時とはまるで異なる行動をとるようになるから情けなくも面白い。

 字幕が読みにくいので吹き替えの洋画を見るようになったのだが、やがてその違和感に耐えられず、洋画を捨てて邦画ばかりを観るようになった。
 そこまでは良い。しかしいつのまにか盲人が出てくる映画ばかりを選ぶようになったから、どうにも縁起が悪く精神が穏やかでない。
 
 勝新太郎の《座頭市シリーズ》。
 そしてビートたけしの《座頭市》。
 極めつけが《はなれ瞽女(ごぜ)おりん》を観た。

 瞽女というのは、「盲御前(めくらごぜ)」の略で、盲目の門付女旅芸人の事を言う。

 江戸時代から昭和の初め頃までほぼ全国的に活躍したというが、特に新潟県を中心にした北陸地方で、三味線を弾きながら歌を歌い、馴染みの村々を流し歩いたということで知られている。 

 この映画は昭和52年の作品で、原作は水上勉である。

 私が最初に読んだこの著者の本は《一休》だったのだが、読み始めるうちに、申し訳ないが、著者の洞察の浅さと感性の貧粗さに嫌気がさしはじめ、散々努力をしたもののどうしても我慢がならず、結局途中で読むのを諦めた。

 その苦い経験が尾を引いていたので、この映画も映画としての評判は気になってはいたものの、今までずっと避けてきたのである。

 監督は篠田正浩、これもまた水上勉同様、凡人色が濃い監督で、原作の著者と仲良く足並みを揃えている。

 かたや主役は岩下志麻と原田芳雄で共に十分存在感があるのだが、女優の岩下志麻と監督の篠田正浩は夫婦であるから、梅雨時に長く冷蔵庫に入れたままの魚のように生臭さが気になって仕方がない。

 自分が目を患わなければ、おそらく一生観ないで終った映画だったかもしれない。

 物語は、貧しい漁村にうまれ6歳の時に身寄りをなくした盲目のおりんが、薬売りの男に拾われ、越後の瞽女の親方であるテルヨの所へ弟子入りするところから始まる。

 生きること自体が厳しい瞽女に焦点を当てながら、人間の欲や醜さ、冷酷な社会や地方の貧しさなどをからめ、最終的には男女の悲しくも美しい愛を描いているが、どうしても、つくり手がつくり手だけに、"浅さ"は否めない。

 けれども、このような、ある意味遠浅の海水浴場のように安全な作品は、多くの人を無条件に感動させるから、興行的にはこれでいいのだと思う。

 私にとっては、原作や映画の深みを気にするよりも、"瞽女"という存在そのものに興味が集中した。

 ラジオが普及するまでの時代に各地に広がり、伝わっていった民謡の多くは瞽女たちのおかげではなかったのかと思えたからである。

 そうしてあれこれと文献を集めて調べてみると、面白いことが次々とわかってきた。

 私は勝手に瞽女のことを、物乞いのようにみすぼらしく、迎える村人にとっても訪問販売のように迷惑な存在であったと想像していたが、どうやらそれはまったくの誤りであったことが見えて来た。

 極端に娯楽が乏しかった時世、ましてやほとんど旅人や行商人が立ち寄らないような山間部の、さらに山奥の村々では、瞽女の訪れは皆が待ちわびるほど貴重な娯楽であったようなのである。

 後世の人間の勝手な思い込みは、往々にして、真実を見失うから、注意が必要である。

 盲目ゆえ、何事も不自由であるはずの瞽女たちは、健常者よりも服装や身なり、立ち振る舞いに留意したという。

 そのためには幼い頃から、一人で何でも出来るように徹底的に訓練を受け、針に糸も通して衣服を繕う事も出来たというから驚きである。
 
 そんな彼女らが歌った歌は、おおかたが底抜けに明るかったが、時折、哀切の極みを聴衆の魂に突き刺した。 

 瞽女たちの巡業の旅は、数人ごとに分かれて、各組が事前に決められた日程と順路に従い晴眼者(視力のある者)の手引きを先頭として、その後ろを皆が縦に連なるような形で歩いた。

 たとえば越後の瞽女巡業なら、富山、長野、群馬、福島、山形の隣県に限らず、宮城や秋田まで出向いたというから、それだけでも驚異としか言いようがない。

 瞽女の歴史は非常に長きに渡るものであったが、大正から昭和にかけて急速に時代の波が押し寄せることになる。

 山間部の村にも活動写真などの新たな娯楽が伝わったのがその始まりだったが、致命的だったのはラジオの普及であり、最後はテレビがとどめを刺したのだろうということは容易に想像ができる。

 とにかく、経済社会の進化とメデイアが、多くの古くて貴重な文化を抹殺したのは、まぎれもない事実である。

 現実的には、彼女等を援助していた地方の有力者が、農地改革によって土地と財産を失ったことが大きな理由であったともいう。

 戦後の民主主義から端を発した身体障害者に対する福祉保障や人権問題の意識が、社会的弱者であった彼女たちを、危険な環境や仕事から解放したのは確かであったであろうが、一つの芸能の時代が消滅したということが、果たして我々や瞽女さんたちにとって、本当に幸せだったかどうかは、私ごときには、何ともわからないのである。

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