エッセイ 刑事くん
もうだいぶ前の出来事です。
関係者に迷惑をかけてはいけないので、
はっきりと覚えているのですが、場所も地域も年度も、あえて公表いたしません。
その日私は知人と共に、いきつけの定食屋にはいりました。そしていつものトンカツ定食を食べはじめた頃でした。
のれんをくぐり、山口では珍しい目つきの悪い2人組の男が、店に入ってきたのです。
ちなみに、山口というのは、山口県もしくは山口市のことを言います。誤解なきよう。
一瞬、そのうちの一人と私の目が合いました。
私は、すぐに「顔認識」をしましたが、素知らぬ顔を装い、何事もなかったかのように、知人と食事を続けていました。
するとしばらくして、さっきの男の片方が、自分の席を立って私のそばに歩み寄り、私の耳元でつぶやきました。
「さすがですね……とっさに知らん顔をしてくれはるとは……」
私が答えます。
「そんなもん、当然のマナーでんがな」
「いつもご協力、感謝します。ですけど、今は単に、飯を食いにきただけです」
「なんや? あたりとちゃうのん」
「はい」
「まあ……そやけど、万が一ということがあるからな……念には念をいれといた方が、マチガイないさかいにな」
「そんな気を使ってくれるの、久保さんだけですわ」
そう言って、また自分の席に戻っていきました。
ほどなく、先に入っていた私らは、早々に食事を終えたので、席を立ち、レジに向かう途中で、まだ食事中のさっきの2人のテーブルの脇を通る時に、スッと彼らの伝票を回収し、
「お先に」と、言い残し、そのまま、私がまとめて支払いを済ませました。
レジの女性は顔見知りなので、「あそこのぶんも一緒に……」と言うと、すぐに理解してくれました。
私の背中を見ながら、2人があきれたのか、クスクス笑ったのか、感心したのか、それは、わかりません。
2人は顔なじみの私服……つまり、刑事でした。
懐かしい、心あたたまる、ささやかな、職業を超えた人情のひとこまです。
おごられた方よりおごった方の記憶にいつまでも残る。
そのうえ、こうしてネタにもなるし、なんと素晴らしいことか。
人生はこうして、1コマ、1コマ、楽しんでいくのです。
でも、人間、おごりは禁物ですぞ。
おごれる人もひさしからず、
ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
ひとへに風の前の塵に同じ。
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