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高校生と「生きる」について語ったはなし

先日埼玉県にある高校で授業をさせていただきました。



今回は
高校教師である友人の御縁で
「日本史」授業の一環としてでした。


基本的に
友人とさらに高校生との対話を中心に展開していきました。



「なぜお坊さんなのに髪あるの?」
の素朴な疑問から

真剣にいろいろな質問をぶつけてくれました。


授業の最初は自己紹介を兼ねて
次のことについて話をしました。
・自分の高校生のときについて→本当にどこにでもいる普通の子。特に問題も起こさないので教師からにしたら扱いやすかっただろうなー。自分のことは好きではなかった。一年生のときは勉強に自信があったのでどこか胸張って生きていた。クラスメイトもどこか刺激的なひとが多かったので楽しかったけど。2年生に進学クラスに行き、周りのレベルの高さについていけずすっかり自信をなくしていたけど。そんなところを見せず。なんとなくどこか崖から落ちないように生きていたなー。今思えば中学生のときに似ている。進学校、県内でトップクラスの学校にいたのでどこか変なプライドがあった。
・いま何をしているのか
・死生観カフェをしていること


授業の途中で
なにか高校生に聞きたいことあるかという問いに
思わず出てきたのは
「生きづらいと感じているか。生きている感覚はあるか」
最近なぜか出てくるワード。
思わず出てきた。

・死生観カフェはどんな世代が来ているの?どんなことをしているの?
・愛ってなんですか。→仏教では「慈愛」という言葉で表現している。これはお母さんの愛。子供に対して、これをしてあげたから見返りにって思わない。これこそ愛ってではないだろうか。
・死って良いこと?悪いこと?
・来世って信じていますか。
・死にたいって考えるって悪いことですか。
・このクラスにいるだいたいがなんとなく高校に来ている。なんとなく生きている感覚でなくなったときはいつ?生きていると感じるようになったのはいつですか?
・臨死体験したことがあるってひとに出会ったことありますか。
・運命とか使命に従って生きるのは良いことですか。
・最近除夜の鐘問題とか仏教の意識が変わってきているけどそのあたりをどう思っているか。


などなど


いろいろな質問をいただき嬉しかったです。


高校生、本当にいろいろなことを考えている。


でもそれに対応する、応える大人がいない。少ない。
そもそも親や教師以外の大人に知り合う機会って少ないんだろうなー。
(こういうところにもいまの現在社会、狭いコミュニティが見えてくる。)


親に聞いたら
「そんなこと考えてなくていいんだよ」とか言われてしまう。
そもそも親とのコミュニケーションって対話ってあるのかな?


わたしはそもそもこんなこと考えたりしたことすらなかった・・・
疑問がなかった。ん?考えるきっかけがなかった。


今回訪れた高校は進学校。
でもなにかこれがやりたいから大学に行くのではなく
生きているために
大学に行けば良い人生があるんだというレールに乗っていけば大丈夫という流れ。
でもそこに進む自分にどこか違和感を感じている。


でもこの違和感を大切にするかどうか
これこそ生きているって感覚なんだろうなー。


あと授業の最後に
死にたいくらい悩む、苦しむ、考えることこそ
生きている感覚であり、これは生きているからこそ。
これからもいっぱい悩んでほしいなーってお伝えしました。


日本の未来は明るい。
高校生たちを見て感じましたよ。


またこのような対話をぜひまたしたいなー。


そんな機会をいただける先生からの打診をお待ちしております。


おれも高校生に負けず頑張るぞ!!!

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