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No game No life(最古の記憶編)

ぼくの家庭は複雑だった。(´-ω-`)

6歳までの人生で、映画が一本出来るくらいに。


小さい頃のことは、まだ自我が芽生えたての頃ということもあって、思い出の順番がバラバラだ。「点」がいくつもふわふわ宙に浮いているように。

ぼくは自分のルーツがあやふやなので、記憶を時系列順に並べたかった。

でも、思い出話を人づてに聞いても、はっきりしない。


そこで、思いついたことがある。

自分の人生で最古のゲームの記憶を拾い上げるのだ。(゚Д゚)ノ

ゲームの歴史と紐づければ、自分の記憶の西暦もWikiから見れる。

記憶の点と点をつないで線にしていくと、次に進むべき方向が見える。

クリアな人生を生きるために、必要な「みそぎ」だ。(`・ω・´)


今回は、普段は顔をのぞかせない「6歳以前の記憶」の中にある、ぼくの中で最古のゲームの記憶を呼び起こす。

1.セガのバーチャコップ/1995

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父は6回くらい離婚と再婚を繰り返している。原因は絶対に酒とDVだ。

どうやらぼくは8人兄弟らしい。僕も含め僕の弟から上は全員母親が違う。

らしい、というのは、そのうち3人は生き別れてしまって、思い出も交流もないからだ。離婚の際に、母方が引き取って、去ってしまったようだ。


父はいわゆる在日3世と呼ばれる世代で、バブルを経験したり、当時は差別もあったろうし、ビートルズにあこがれてバンドでドラムをやったり、マサチューセッツ工科大学に企業研究員として留学したり、チリ紙交換、ゲームショップ、建築家やエンジニアや通信事業をやったり、起業しては倒産し、とにかくハチャメチャ人生だったようだ。(;´∀`)

日本で初めてテレビ電話を実現したのは自分だと言い張っている。

人一倍努力はするが、失敗も多かった。

人が良すぎて多額の借金を抱え込んだりしていた。

多分本当はいい人だ。酒さえ飲まなければ。

今はもう定年して、すっかりしょぼくれている。(´-ω-`)



ぼくが小さい頃の話は、一番上の姉から聞いた

ぼくが結婚してから、姉とはちょくちょく交流を持つようになった。

父親が無茶苦茶でも、自分から一人で保護施設に乗り込むくらいタフな姉だ。大人になってもしばらくグレていたが、最終的に看護師になって、今は立派に母親をしている。結構な教育ママだ。(·∀·)

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ぼくはタイ人の母から生まれた。父が酔って喧嘩をして、ボコボコにされて道でボロ雑巾になっていたところをたまたま介抱したのが、僕の母らしい。姉から聞いた。(^p^)

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父は中国と韓国のハーフなので、ぼくは日本生まれだけど半分がタイ人の血、もう半分ずつに中国と韓国の血が入っている。

アジアのハイブリッドだ。タイの要素のおかげで、いつも温厚に陽気でいられる。

余談だが、ぼくの娘はさらに日本の奥さんの血が半分入っている。

アジアのニュータイプだ。(`・ω・´)



ぼくが生まれた頃は、両親が外国人だと子供もそのどちらかの国籍を継がなければならず、ぼくは日本生まれの韓国人になった。法律のゆがみだ。

母が写っている写真は2枚しかない。ぼくの中の母の記憶もカタコトの高い声でぼくの名前を呼んでいる1ページしかない。(´Α`)

父は離婚の際、母からかなりひどい引き取り方をしたようだ。(´·ω·`)

ぼくを引き剥がされるような形で、母は泣き崩れていた、と姉から聞いた。

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大人になってから会いに行こうとも思ったが、名前と住んでいる地方まで調べたところで、結局やめた。今はもう別の家庭を持っているそうだ。

自分のエゴで、つらい思い出を思い出させるわけにはいかない。(´-ω-`)



せめて何か共通点があれば、と思って、高校の頃はムエタイのジムに通っていた。K-1でもムエタイ選手を応援し、今でも好んでタイカレーを食べる。

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ぼくのあだ名の「ワディ」も、母の名前からとっている。(´-ω-`)

大学で、自分の身の上話をしたとき、「母がぼくを引き取っていたら、パッタラワディ・シュウになっていたかも」という話をしたら、ウケた。

それからワディと呼ばれるようになった。気に入っている。

後で知った話だが、「パッタラワディ」は苗字ではなく名前らしい。

根底がめちゃくちゃになってしまったが、どうでもよかった。(゚⊿゚)



大卒後、日本で生まれて基本的には日本で育ち、これからも日本で生きていくつもりだったので、40万円くらい払って帰化した。

父は猛反対したが、結局止めることはできなかった。(^p^)


父も父で、国籍のことで苦い経験があったのだろう。

父が小さい頃、兄と二人で土管の中で暮らした経験もあるそうだ。

父の母もまた、酒乱だったから、大変だったのだろう。(;´∀`)

家系の歴史や誇りについて幼少期からぼくに熱く語っていたが、どうもぼくには響かなかった。コンプレックスの裏返しにしか見えなかった。

帰化は、父へのささやかな仕返しでもあった。(^p^)

帰化申請をするとき、実母のサインが必要だったのだが、事情により調達できなかった僕は、両親の離婚の際の裁判書類を取り寄せた。

原告(母)の主張を読んで、絶句した。闇金ウシジマくんさながらだった。

帰化の際の面接担当者に同情された。無事、帰化申請は通った。(`・ω・´)



幼いころは、京都の西陣という地域で住んでいた。

今ではすっかり荒れ果てた、2階建てのボロボロの家。(´Α`)

「梅雨の井」という、寂れきった観光名所の井戸のすぐ近くにある。

目の前にお地蔵さんがある。このお地蔵さんにはお世話になった。

その家の、狭い畳の部屋で、バーチャコップ2青いガンコンを持って、

「バンバン」と虚空を撃っていた、自分の姿の記憶がある。

よく分かってなくて、1面もクリアしたことがないだろう、幼い頃の僕。

セガのバーチャコップ2は、確かに僕はあの家で、母と一緒に住んでいた時期があるということを裏付ける、唯一の作品なのだ。

2.クロックタワー2/1996

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もうひとつ、ぼくが生まれた家での記憶がある。

兄がこのゲームをやっているのを、横で見ている記憶だ。(*゚▽゚)ノ

ハサミ男に捕まらないよう、隠れたり抵抗しながら逃げるゲームなのだが、主人公が床下に隠れ、ハサミ男が部屋から出るまで息をひそめるシーンを、鮮明に覚えている。

高校の頃、ニコニコ動画でこのゲームの実況を見ていた時にたまたま同じシーンがあって、この記憶がフラッシュバックした。

兄はSDガンダムもやっていたように思う。

肝心の兄の顔は、ぼやけている。(´-ω-`)

顔も知らない。名前も忘れた。どんな人かも全然知らない、お兄ちゃん。

繋がりはこのゲームと、父親の血だけだ。元気にしているだろうか。


3.アーケード版メタルスラッグ2/1998

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ぼくは父親がエンジニアだった頃に生まれているので、小さいころから海外に連れていかれることが多かったようだ。

サンフランシスコの父の職場で、アメリカ人のスタッフに見守られながら、当時は珍しかったであろうPCのゲームをやらせてもらった記憶がある。

海の中の魚をクリックすると、その魚がこっちを向いて手を振るゲームだ。


ぼくには「てるこ」という韓国系のおばさんがいた。父の母の妹だ。

戦後の厳しい時代を生きた、たくましい人だった。

ぼくを猫かわいがりしていたようだ。

小さい頃は、やたらと『マンキンタン』を食べさせられた。(´-ω-`)

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ある日、事件が起きた。

父の酒乱を見かねてか、ぼくがかわいすぎたのか。

てる子のおばさんがぼくを連れてハワイに逃亡したのだ。Σ(゚д゚;)


その頃にはもう、母はいなかったのか、詳細は知らない。(´-ω-`)

とにかく僕は、てる子のおばさんに誘拐される形で、アメリカに渡った。

おばさんは、アメリカの軍人と結婚していたようだったが、独り身だった。

どういうツテでアメリカで暮らしていたのかは知らないが、英語はペラペラだった。(*゚▽゚)ノ

夫に先立たれたのか、パンパンガールだったのか、詳しくはわからない。

ともかく、ぼくが学んだ第一言語は英語になった。(*´∀`)

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父は、必死に僕を探したらしい。(·∀·)

でも親戚も、事情と父の粗相を知っているので、簡単には教えてくれない

アメリカで、たまたま乗った電車のホームで、父がぼくを見つけて、必死に追いかけてきたけど、目の前でドアが閉まった時の絶望の顔を覚えている。

ぼくはよく理解しないまま、おばさんに手を引かれながら見ていた。


しばらくして、夜のアメリカの街中でぼくを見つけた父が、おばさんと大喧嘩しながらぼくを取り合うことになった。

人目に付いたので、間もなく警察が来た。警官は僕に尋ねた。

警官(#゚Д゚) 「この人は、君のお父さんかい?」
ぼく:(^p^)「No」

父は速攻で取り押さえられ、連行された。(`・ω・´)

おかげで父には、アメリカでの逮捕歴がある。


ぼくは、なんでそう答えたのかをはっきり覚えていない。(´-ω-`)

眠かったのかもしれないし、父のことを覚えていなかったのかもしれないし、家に戻るのが怖かったのかもしれない。

そういえば、幼少期には追いかけてくる父から逃げる夢をよく見た。

怖い夢だった。今思えば、トラウマだったのだろう。(´Α`)

裏切られた父どれほどの絶望だったか知らないが、自業自得とも思う。



それからほどなくして、ぼくはおばさんと韓国のプサンに移った。

かすかだが、記憶がある。(´∇`)

団地の階段にボールを蹴って、落ちてきたボールをまた階段に蹴り上げる遊びを一人で延々としていた。

たまたまその団地で仲良くなった女の子が、両親不在の家にぼくを招き入れて、二人で冷蔵庫のいちごジャム1つのスプーンで食べた。


おばさんはどうやって暮らしていたか知らない。

父から聞いたが、ぼくは万引きの手伝いなどもさせられていたようだ。


韓国の幼稚園にも少しだけ通っていた記憶がある。

給食には本当にビビンバが出る。先生が一口目を食べるのを見届けてから、自分も食べるのがルールだ。

「いただきます」は「チャルモッケスミダ」。


住んでいた町内には子供たちがいて、アーケードゲームを置いてるコンビニがあった。年上の子供たちがプレイしているのを、ぼくは横で見ていた。

ボタンの壊れたメタルスラッグ2のアーケードだった。

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向かってくるミイラが怖かったのを覚えている。(´·ω·`)

みんなのお金が尽きたので、ぼくはおばさんの元へ行って、お金をせがんだ。意外なことに、1000ウォン?だったか、お札をくれた。

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ぼくはそのお金の半分でテレタビーズのアイスを買い、残りのお釣りを年上の子供にあげた。

当時のぼくはやりかたがわからなかったし、隣で見ているだけで充分楽しかった。(*゚▽゚)ノ

ちなみにこのゲームは中学でGBAを手に入れてから、今度はちゃんと自分でクリアすることになる。

このゲームは、ぼくが確かに韓国で暮らしていた記憶を裏付けるゲームだ。

英語も韓国語も忘れてしまったが、このゲームの思い出だけは残っている。


4.余談~その後~

ぼくを誘拐したおばさんと、ぼくを探して追いかける父。

誘拐以外にも、一つ問題があった。

おばさんも酒乱だったのである。(;´∀`)

戦後の厳しい時代を生き抜いた人だ。つらいことが多すぎたのだろう。

ただ、子供の僕に暴力をふるうようなことはなかった。

団地の階段で吐いているおばさんを泣きながら見るぼくの記憶がある。

近所の人が、おばさんの介抱がてら、ぼくも家に招き入れてくれた。


その家の子供たちと、テレビでやっていたチャイルドプレイを見た。

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幼いぼくには強烈すぎる内容だった。(;´∀`)

おかげでぼくは、チャッキーと協力して父を殺す夢を見たことがある。


ほどなくして、韓国系親族で元軍人の「ユンさん」という人が、父にぼくとおばさんの居所を教え、ゴタゴタを調停した。

元軍人とは思えないほど優しい顔の、背筋のピンとしたおじいさんだった。

(ユンさんは、亡くなる少し前に、ぼくに「幸せになれよ」という内容の手紙と、蚕の繭みたいな形状の韓国のお菓子を送ってくれた。ぼくはよくわからない味だなぁと思いながら食べた。)

ぼくを迎えに来た父の横には、母はいなかった。(´-ω-`)

代わりに初めて見る女の人がいた。それが今の「お母さん」である。

怒るときはヒステリックで怖いところもあったけど、大人になってから振り返ると、日本語も通じなかった僕を教育するのは必死だったのだろう。

今では、本当に感謝している。(´·ω·`)アリガトウゴザイマス


帰国後、まずは寿司を食べに行った。

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当時のぼくは、寿司全般のことを「まぐろ」と呼ぶと思っていたので、本当は玉子のにぎりが食べたいのに、何度もマグロを持ってこられた。

数の子をはじめて食べ、嫌いになった。(゚⊿゚)(今は大丈夫。)


新しいお母さんは、父と共働きしながら、毎日ぼくに日本語を教えた。

日本の保育園にも3か月だけ通った。

まだ日本語は危うかったが、公立の小学校に通うことになった。


もちろん問題児だった。授業中に口笛を吹きだすようなマイペースだ。


両親は初めての三者面談で、担任に、

(#゚Д゚) 「どういう教育をされていますか?」

と聞かれたそうだ。また小学校の話は、別の機会を設けると思う。



数年前、例の騒動以来15年くらい会ってなかったおばさんが危篤になって、会いに行く機会があった。

久しぶりにあったおばさんは、白髪でしわしわの、別人だった。(゚Д゚)



ベッド横には、一緒にいた時のぼくの写真がたくさん飾ってあった。



おばさんがどんな過去を過ごしたか詳しくは知らないが、いろんな事情を想像して、ものすごくいたたまれなくなった。

ぼくが寝たきりのおばさんに挨拶すると、おばさんは一言、

「秀か・・・?」(*゚▽゚)ノ

といって、しばらく僕の目を、ずっと夢でも見るように見つめていた。


数日たって、おばさんは亡くなった。

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葬式を挙げて、ぼくは過去にひとつ、けじめがついた。


ちなみに、父の酒乱は帰国後も治らなかった。

数年前に脳卒中で一度倒れてからは、おとなしくしている。


5.最後に

この記事を書くために、記憶にあるゲームの発売された年を調べることで、自分の中の点が線となった。

バラバラだった時間がつながり、過去から現在へと自分史が流れていることを実感できた。

我ながら良い思い付きだったと思う。(*゚▽゚)ノ


生きていると、よく「変わってるね」といわれる。そりゃそうだろう。


三つ子の魂百まで」の理論で行けば、幼少期の経験が多くの人の「普通」とは違うので、性格もこうなる。


小さい頃は、「周りと違う」ということがコンプレックスだった。

父親、家庭事情、国籍、生い立ち、考え方、、、、(´·ω·`)

ご近所から見ても、やばい家庭だったと思う。
(父は酔うと声を荒げ、暴力的になり、モラルのタガが外れてしまうのだ)

人と「違う」やつは周囲から「浮いて」しまい、孤独になってしまう。

家には酒乱の父が、外では「変わったやつ」という孤独が。

流行りのゲームの話もできないぼくは、なおさら溶け込めなかった。

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人一倍寂しがりなぼくは、孤独に耐えきれなかった。

どこにも自分の居場所がないように感じた。(´Α`)

でも、そんな孤独からぼくを救ったのはゲームボーイだった。(詳細はゲームボーイ編)

やはりゲームがなかったら、今の僕はいない。感謝している。(´∇`)



こんな話をしたが、ぼくは自分のことを不幸だとは全然思わない。

確かに小さいころ、初めてみんなの「普通」を知った時はショックだった。

でも今では、「昔の人の苦労に比べれば些細なことだ」と思う。

正直今でも親父は苦手だ。親父に似たタイプの、両津勘吉も嫌いだ。

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でも、本当に感謝している。(´-ω-`)

なんだかんだ言いながら、しっかり育ててくれた。

3歳の子供を置いて3日間も男に会いに行き、餓死させる人もいる。

いつかのニュースで、そんな報道を見てしまった。

娘をもったぼくは余計に胸が痛むとともに、親に恵まれたと思う。



親からもらったもので、一生モノのお気に入りのプレゼントがある。

それは、「名前」だ。

さっきも少し話に出したが、ぼくの本名は、「秀(シュウ)」という。

秀でる、という意味だ。優秀である。(`・ω・´)

ぼくはこの名前のおかげで、「変わってる」とは自覚しても、「劣ってる」と思ったことはなかった。この自己暗示のおかげで、大体何をやってもそれなりに結果が出る。やはり自分に自信を持つことは大事だ。

誰にでも勝てる方法だって知っている。(詳細はこの記事↓)

ゲームで培った問題解決能力、没頭力、想像力、成功体験もある。(`・ω・´)

noteのダッシュボードを見ていると、それらが現実でも通用することも証明できそうだ。

正直、無敵だと思う。(゚Д゚)ノ

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今のぼくは、幸せだ。(*゚▽゚)ノ

美人で優しい奥様がいて、かわいい娘もいる。

(昨日は娘が高熱を出して夫婦でうろたえたが)

厳しい世の中でも一応仕事があって頑張っていること(note)もある。

目標もある。10月に出る10万円のゲーム機を、noteで稼いで買う。

今はこの目標のために毎朝4時に起き、執念を燃やしている。

ゲームはぼくの人生の一部だからだ。(´-ω-`)

ぼくのペルソナは多分、ゲームボーイを片手に持った少年だろう。

大人と子供、両方の心をかけもちする、それがぼくだ。

子供時代のゲームの記憶は、いつもぼくを励ましてくれる。

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これからも、ゲームはするだろう。

これから出てくるゲームが、今後のぼくにどんな影響を与えるだろうか。
ぼくはゲームクリエイターの作ったどんな宇宙に飛び込めるだろうか。


毎日ゲームの新作発表のニュースを見て、わくわくしている自分がいる。


◇◆No game No life過去記事(*゚▽゚)ノ◆◇

~ゲームボーイ編~

~ゲームBGM編~


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それではまた次回。( ・∀・)ノシ

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