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表現することをはじめてみる

こんにちは。「わあこ」です。今日から何かしらの「表現すること」をはじめようと思います。SNSの更新もままならない人間です。長文を書くのは卒論以来、もう10年以上そんな機会はなかったように思います。あたたかく見守っていただけたら幸いです。

きっかけ

思えば誰かが作ったものを見て聞いて触れて「消化して」楽しむことばかりして過ごしていた。いや、「消化」じゃなくて「消費」、「消費」じゃなくて「浪費」かもしれない。

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よく、「インプット」と「アウトプット」の両方が大事だと言う。ビジネスでも、芸術でも、あらゆる分野で同じことを言われているんだろう。大学の卒論ではきちんとした引用や事前調査からの仮説立てが大事だった気がする。社会人になってからの企画書では市場背景や顧客の顕潜在ニーズから企画立案することが大事だって言う。「結局どれだけ自分が引き出しを持ってるかが大事なんだ」という言い訳をしながら、漫然と本や話題の品を買い込み、美術館や博物館、映画や展覧会、セミナーやイベントに足を運んでは何もストックせずに忘れ、病気や忙しさを理由に逃げ出して場当たりな日々を過ごし、ただお金と時間を浪費していただけかもしれない。

10年近く同じような生き方をし続けてきて、でも実はそんな時間の使い方にそろそろ飽きていた。きっと何か新しい刺激が欲しかったんだと思う。

これが若い頃だったら「カッコよく見られたい」だとか「お洒落なインフルエンサーになれたらな」とか思うのかもしれないけれど、社会に揉まれた所為なのか歳を取ったのか、アナ雪ではなく枯れ草のように、ただ「あるがまま思うこと」や「自分の好きな物事」「大事にしたいこと」を表現することで、自分の思考を整理しつつ「どれだけの人が同じように/違うように感じているか」を知り、自らの感覚のずれを修正することで、柔軟さのある、多少まともな人間に成長できたら良いなと考えるようになった。もう中年だけどね。

そういえばよく言われていた「日記をつけたら良いよ。自分の成長がわかるから」。結局何事も続けずに逃げ出していたから、自分がどんな成長をしたか、そもそも成長しているのか、よく分かっていない。

表現の手段とルール

ルールを決めて新たに整理しキレイな状態に持っていくことは好きだけれど、そのルールを守り続けることは苦手、という人はどれくらいいるのだろう。私はそういう面倒な人間だと自覚している。ここで「じゃあ毎日更新ね」「必ず文章は500文字以上ね」「絵や写真も入れること」「必ず文章だけで構成すること」とかルールを課せば、最初の1・2回やっても、その次ができなくて、できなかった自分にも苛立って放り投げてしまう。でも、新しく何かを始めることは好きだし、言葉を選んで推敲したり、見せ方を考える過程そのものは楽しいと感じる。でもその行為を毎日長く続けることはできない。

そう、何かを始めたら必ずどこか途中で逃げて、時には手抜きでとりあえずまとめたものを提出してやり過ごしていた。思い返せば子供の頃から「本気で取り組んだもの」はなかったように思う。もしかしたら多少は要領が良かったのかもしれない。よく言う「それも含めて実力」ではあるんだけど「やり切った感」を感じることなく今まで生きて来たのか、と今更ながら気付く。それは自分の中では小さな衝撃でもあり納得でもあって。そうか、だから程々頑張るだけで形に残すこともなく、中途半端な生き方ばかりしてるんだ、と。

そんな自分がはじめるのだから、最優先課題は「続けること」。他の方からすると甘いかもしれないけれど、1年続いたら「やり切った」と認めてあげよう。だから、絵だけの日もあれば、写真だけの日、文字だけの日だってあって良いし、毎日じゃなくても良しとしよう。

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次からは

それでは次からは毎回テーマを変えて投稿していこう。中途半端に過ごしてきた人間だから、浅くて狭い話題をぽろぽろと溢すことになるけれど、誰かが読んで反応してくれたら。そしてそれをまた自分の学びにできたら。

今回はここまで。それではまた今度。

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