キムチ炒飯への拗らせた愛情、の話

 前置きとして、僕はキムチ炒飯が好きだ。

 僕がキムチ炒飯好き、という事を改めて知ってもらった上で、今日はキムチ炒飯について考えていこうと思う。

 まず初めに、炒飯という食べ物がある。僕はこのシンプルな炒飯も大好きだ。強火で炒められたパラパラのご飯、それと混ざり合って様々な表情を見せる具材達、味をまとめ上げる卵、食欲をそそるごま油の香り。考えた人は天才だと思う。

 次に、キムチという食べ物がある。僕はキムチが好きだ。特にオイキムチが好きである。辛さの奥にある魚介の旨味や、みずみずしい野菜の食感、これまた考えた人は天才だ。

 さて本題のキムチ炒飯について考えてみよう。とても美味しい炒飯という料理と、キムチという料理を合わせているのだから、当然美味しい。美味しいもの+美味しいもの、なんて基本的に美味しいに決まっている。

 しかし、だ。キムチのことを思い出してみよう。彼は非常に主張が強い食材だ。それだけでご飯のお供に出来てしまう。ポジションとしてはカレーと同じ類である。つまり、「混ぜたら何でもそれになっちゃう」系だ。

 炒飯に入れる具材は沢山ある。家庭やお店によって全然違う。だが豚肉を入れようがキャベツを入れようがグリーンピースを入れようが、そこにキムチを投入した時点で全て脇役と化す。キムチはそれくらいの強さを持っているのだ。

 一方、キムチもキムチで炒飯からの攻撃を受けている。炒められてしまうのである。瑞々しい辛味が売りのキムチにとっては大ダメージだ。水分が全部飛んでいって、後に残るのは「ちょっと辛い野菜」だけだ。

 つまりキムチ炒飯とは、お互いに喧嘩しあって出来たのにも関わらずなんか美味しい料理なのだ。例えるならば、ドラゴンボールのゴテンクスみたいな感じだろうか。

 確かに美味しい。けれど最強ではない。「一番好きな食べ物」でキムチ炒飯をあげる人はいるだろうか。極上の焼き肉、極上のカレー、極上の寿司は容易に想像できるが、極上のキムチ炒飯はどうだろうか。

 キムチ炒飯という料理には、美味しさの限界のようなものがあるのではないだろうか、と思っている。全てを塗り替えるキムチという具材を投入し、さらにそれを炒めてしまった料理、それが「キムチ炒飯」だ。

 どんなに美味しいキムチを投入しても、それは炒められて水気を飛ばされ、ただ辛い野菜にされてしまうのである。どんなにパラパラ味はかつてキムチだった辛い野菜と調味料の味だし、他の具材は全てキムチの辛さに上書きされている。

「今まで食べたキムチ炒飯の中で一番美味しい!」

そんな感想を抱けるようなキムチ炒飯は存在するのだろうか。美味しくないキムチ炒飯というのが無い代わりに、とても美味しいキムチ炒飯というのも無いのではないだろうか。

 一番初めに言ったが、僕はキムチ炒飯が好きだ。だが食べていてふと思うのである。美味しいキムチ炒飯というのは存在するのだろうか、と。キムチ炒飯は確かに美味しい。しかしそれは「うん、美味しい」という程度であって「うわっ、なにこれ美味しい!!」ではない。

 このエッセイを読んだ人たちが「いやそんなことは無い。私は超絶美味しいキムチ炒飯を知っているぞ」と教えてくれることを願ってやまない。

 

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