【小説】道幅
2020年に書いた短編小説。
蓋を閉める時にこぼれ落ちた掃除用の薬品は、地面に叩きつけられるや、くるくる回転しながら、自分がただこぼれ落ちたに過ぎないのだとは夢にも思わず、何かをきれいにする気まんまんで、一歩ずつ前に進みだした。水滴のようにも見えるが粘度は高く、一度絡め取った汚れは自らのうちで溶かすまでけして離そうとしない執念深さを持ち、目に見えない汚れを根こそぎ奪っていく便利な機能を与えられた地面の上の液体は、確かに然るべき場面でそれなりの量を用いれば、役に立つことこの上ない。しかしただ蓋を閉める時の勢いのせいでこぼれたというだけでは、何も成し遂げることなく、乾いていくことしかできないはずなのに、本人はそんな簡単なことも考えつかず、役立つ気まんまんで、歩みを止めようともしないのだ。
いい気なものである。
そこへダンゴムシが通りかかった。おかしな液体が自信満々で歩いているのでおかしくなり、思わず笑いながら話しかけた。「よお、どこ行くんだ? おめかししてるじゃねえか」
「掃除しに行きます。汚れを落としに行きます」と液体は目を輝かせながら答えた。
「掃除って言ってもよ、お前みたいに地面に叩きつけられただけの液体、俺はごまんと見てきたけれどよ、まともに掃除できるだけの量には見えないやつに限ってよ、言うことはでかいんだけどよ、そういうやつが本当の掃除に役立っている場面、俺は見たことねえぞ?」ダンゴムシはヘラヘラ笑いながら丁寧に教えた。
液体は侮辱されたことに腹を立て、つい口からでまかせを言った。「そ、そうした液体たちと僕を一緒にしないでもらいたい! 僕ははっきり、ここから300メートルほど進んだ場所でお待ちしています、という手紙をもらって、正式に掃除を依頼されたんだ!」
ダンゴムシは驚いた。「へえ、そりゃすごい! 液体のくせに直接依頼の手紙をもらうやつなんてよお、俺、初めて見たよ!」それから襟を正して、改まった口調で液体にお願いした。「あの、俺もよ、連れて行ってくれませんかよ」
液体は一瞬戸惑った。「いや、見ても面白くないと思いますよ、僕の仕事なんて」
「いや、俺、300メートルも歩いたこと、ないもんで、ぜひお供をしたいとよ、思うんです。俺は小さくて丸まってばかりいるんだけど、たまには自分の足で、思いっきり歩いて、自分の限界を知って、ついでに世の中がほんの一部分だけでもきれいになる瞬間をみたいよおおお、って思うんですよ」
ダンゴムシの熱意を感じて、液体は、断るに断ることができなくなった。「分かりました。でも僕の邪魔はしないでくださいよ」
「やったーーーーーーー」ダンゴムシは丸くなって、一気に転がっていった。
「ま、待ってください」粘度の強い液体は、ノロノロと後を追った。丸いダンゴムシの転がり方は非常に早かった。これでは300メートルくらいあっという間に進んでしまうかもしれない、と思い、液体は焦った。
ダンゴムシは止まり、後ろを振り返り、液体がちっとも進んでいないことに驚いた。「君は遅いなあ」
液体はダンゴムシの言葉に心をえぐられ、また嘘を言った。「このくらいのスピードで移動すれば、約束の時間にちょうどたどり着くだろう……って頭の中で計算しながら進んでいるから、外から見ると遅く感じるのです。でも本当はこれくらいが丁度いいんです。あなたはせっかちですねえ」
「そ、そんな難しい計算をなさっていたのかよ!」ダンゴムシは驚いて声を上げた。「それはすごい! 俺、昔から計算が苦手なんですよ。できればたどり着くまでの間、計算のやり方を教えてくださいよ!」
液体は、「計算のやり方」なるものがどんなものなのか、それをどうやれば教えられるのか、さっぱりわからなかった。そこで、更に嘘を重ねた。「この計算はとても難しいので、口ではとても説明できません」
「じゃあ、地面に書いて教えてください!」
「移動しなければならないので、地面にも書けません」
「じゃあ、何かにたとえて教えてください!」
「たとえ? うーん……」液体は必死に考え、いいことを思いついた。「右端から玉子を入れると、左端から何か見たことのない塊が押し出されてくる機械があったとします」
「ふむふむ」
「入れる玉子によって、押し出される塊も違って見えたとします」
「ふむ」
「塊を左から入れると、右からは玉子が出てきます」
「ふーむ」
「ある人が、機械を覗き込みました」
「ほうほう」
「中は暗くてよく見えません」
「わくわく」
「機械に入り込み、中へ中へ進んで行きました」
「ふむ」
「中は清潔で、ガランとしており、とても居心地がいい」
「それで?」
「さて、なぜ機械の中はそんなにきれいだったのでしょうか?」
「うーん……」ダンゴムシは考え込んだ。「さっぱりわかりませんよ……」
「答えは、300メートル進んでから教えましょう」と言い、液体はノロノロ進みだした。
ダンゴムシは並んで歩きながら、液体に尋ねた。「それで、どのくらいで300メートル進むことができるんですか?」
液体にはそんなことはわからなかったので、曖昧に答えた。「まあ、結構長くかかります。300メートルといえば、とても長い距離ですから」
「でも、大体のところ、どのくらいですか?」
「計算式が複雑なので、一口には言えないのです」液体は嘘をついた。
ダンゴムシは尊敬のこもった眼差しで液体を見た。「なるほど……」そしておずおずと頼んだ。「あのう、また何かにたとえて教えてくれませんか?」
液体は必死に考え、また良いことを思いついた。「あるところに、右側と左側で大きさの違う翼を持った飛行機がありました。飛んだかと思えばくるくる同じところを回転して、あっ、落ちる、と誰もが思う瞬間に、思い出したかのように直進して、これで一安心、と誰もが思う瞬間に、急に一方向に旋回する――そんな危なっかしい飛行機です。
ある日、我慢できなくなった機長が、飛行機に文句を言いました。『今度おかしな飛び方をしたら、ぶっ壊してやるぞ!』
しかし翌日、飛行機はいつもと同じように、危なっかしい飛び方をします。機長は怒り狂い、『ぶっ壊す!』と叫んで飛行機の中へ入りました。
中は清潔で、ガランとしています。
機長は困りました。ぶっ壊すと言っても、何をどうすれば、この飛行機はぶっ壊れるのだろう……。
途方に暮れた機長は、外に出ようとしました。ところが、あまりに清潔なせいで、扉のある場所の輪郭がわからない。普通ならばカビやホコリのおかげで薄っすらと扉の形がわかるはずなのに、あまりに清潔で、どこにもそれが見当たらない。機長は『おい、扉はどこだ!』と絶叫しました。
すると機体ががくんと揺れ、ぐるぐる回り始めました。
機長を乗せたまま、飛行機が離陸したのです。
『扉はどこだ! 扉はどこだ!』機長の叫び声が、飛行機の中で虚しくこだまします。
『今、扉のある場所へお連れしますよ』と飛行機が言いました。
機長は愕然としました。ぶっ壊すまでもなく、始めからこの飛行機はぶっ壊れていたんだ……。
さて、機長はその後、外に出ることができました。
どうやって出たのでしょう?」
「うーん……うーーーーーーーーーん……」ダンゴムシは考え込んだ。「見当もつきませんね……」
「300メートル進んだら、答えを教えましょう」と液体は言った。
ダンゴムシは、液体と歩きながらしばらく考えた。そしてまた尋ねた。「あのう、そもそも300メートルというのは、どのくらい遠いのでしょうか?」
液体は、一瞬答えに詰まったが、すぐに適当なことを言った。「かなり、遠いです」
「具体的にはどのくらい……」
「まあ、なかなかのものです」
「それもやっぱり、計算式が難しいんでしょうか?」
ダンゴムシの方から計算式のことを言ってくれたことにホッとしながら、液体は堂々と答えた。「そう、そうです、まさしくそうです」
またしてもダンゴムシはおずおずと言った。「あのう、それもたとえにしていただけないでしょうか」
液体はまた考えた。そしてまた思いついた。「昔、死んだ人ならば決してたどり着けない、でも生きている人もめったにたどり着けない、とされていた場所がありました。事の発端は、誰も興味を持たない場所に行ってきたことを自慢しようとした誰かが、ありもしないでまかせをでっち上げて、話を大げさに広めた、ということに過ぎなかったのですが、しかし皆がそれを信じてしまった。そんな場所に行きたいと志願する者があとを絶たず、しかも志願してでかけた者はほとんど帰ってこないのですから、来る日も来る日も皆がその場所についての噂を口にするようになり、それにつれ、ますます志願者も増えていってしまうのです。
ある日、友人がいつまでたっても帰ってこないことを不安に思ったある人が、はじめにその場所について言った者の元へ行き、問いただしました。『その場所とやらは、具体的にはどこにあるんですか。はっきりしてください』
『うん、行くのは少し難しいんだ。まず、まっすぐ歩いていくと、突き当りがあるだろう。それを右に曲がると、丁字路がある。それを左に曲がると、道幅が狭くなる。なるべく横へ寄りながら、まっすぐ進んでいくんだ』
そこで、教えられたとおりにまっすぐ歩くと、確かに突き当りがありました。『ここで右へ曲がるんだな』
するとそこには、やはり教えられた通り、丁字路がありました。『ここで左だな』
すると、確かに道幅が狭くなっていきます。『ここで横へ寄りながら……あっ』
この人はここで気が付きました。『横』とは一体、右か左か、どちらのことだろう。このまま進んでいくと、どこかへたどり着いてしまう。でも、それがどこなのかは分からない――行きたかった場所なのか、そうではないのか。これではあまりに不確実です。
『真ん中を歩こう』とこの人は決意しました。そして歩いている内に、道の右端と左端、両方がぐんぐん自分に近づいてきます。それはついに自分の右腕と左腕にくっつき、体全体を圧迫してきます。それでもなお、この人は進み続けました。もう体がつっかえて、後ろには戻れません。ところが不思議なことに、後ろよりも狭いはずの前には進んでいけるのです。
『進まなきゃ』とこの人は思いました。
さて、結果的にこの人は、元いた場所に戻ることができたのです。
それはなぜでしょう?」
「うーーーーーーーーーん……駄目だ、お手上げですよ……」ダンゴムシは力なく言った。「あなたのたとえ話は、難しいですよ……」
二人は黙って歩き続けた。ダンゴムシは、まだいろいろと考えているようだった。
はるか遠方に、横断歩道と信号が見えてきた。信号は青だ。ダンゴムシは、「急いで渡ったほうがいいでしょう」と言った。
「いや、遠いのでやめておきましょう」と液体は答えた。
「転がればすぐですよ」
「いや、僕は転がれないので」
「えっ」ダンゴムシは混乱した。
液体は、しばらく自分の失言に気づかなかった。わざとゆっくり歩いているのではなく、この速度でしか歩けないのだと認めてしまったことに、考えが及ばなかったのだ。
しばらく経って、ようやく液体は気がついた。「あっ」と大きい声を上げてしまった。
信号は、まだ青である。
液体は気まずさを覚え、「早く赤になってくれ」と念じた。しかし、信号はいつまでも青だった。
ダンゴムシは、「この液体は、実は足が遅いのだろうか」と疑った。そういえば、自分が見かけたことのある掃除用の液体は、どれもネバネバしており、どれも足が遅そうだった。「ひょっとしてこの液体も……」とダンゴムシは思った。
もしそうだとすれば、難しい計算式について液体が言ったことはすべて嘘ということになる。
いや、ひょっとすると300メートル進めば目的地にたどり着くというのも嘘かもしれない。
だいたい、どこかを掃除してほしい者が、掃除人ではなく掃除道具に直接手紙を渡したりするものだろうか?
疑いはとどまることなく大きくなっていった。
「あの、よう」とダンゴムシは口に出してみた。
そこで、青信号が点滅し始めた。
「あ、もう点滅し始めましたね。こりゃ、もう駄目だ。こりゃ、もう遅い」液体はホッとしながら、大げさに残念がってみた。
「よう、よう」ダンゴムシは液体に話しかけた。「あんたよう、本当に、300メートル進んだ場所で、約束しているのかよう」
「あ、あ、あ、当たり前だ!」液体は怒鳴った。
「じゃあよう、急いだほうがいいんじゃないかよう」
「いや、このペースが丁度いいんだ!」
「分かったよ……じゃあさ、さっきの話の答え、教えてくれよ」
液体は慌てた。答えなど用意していないのだ。「む、向こうについてからです」
「いや、今教えてくれよ」
「駄目です」
「頼むよ」
「駄目だ!」液体はまた怒鳴った。
ダンゴムシは黙った。二人は黙って歩き続けた。
「嘘つきめ」ダンゴムシがつぶやいた。
液体は立ち止まった。「何だと?」
「てめえの話はよお、全部ウソなんだよ!」ダンゴムシは叫んだ。「こぼれ落ちて地面に叩きつけられた液体のくせして、でかい面するんじゃないよ! お前を必要とする現場なんて、どこにもないんだよ! 馬鹿馬鹿しいよ、お前なんかに付き合ってよ、こんなに遠くまで来ちまってよ! お前、ちっとは早く移動してみろよ! お前、うすのろなんだろうよ! 役立たずの上にのろまなんだよ!
お前こそが、ゴミだよ!」
液体はダンゴムシに掴みかかった。粘度の高さによってダンゴムシを自分の内側に取り込むと、すべての汚れを溶かす性能を活かして、ダンゴムシの体を溶かし始めた。
「やめろよ、やめろよ!」ダンゴムシは全身からキイキイと音を立てた。やがてダンゴムシの存在が不潔だった分だけ、世界は清潔になっていった。ダンゴムシの体が占めていた分だけ、世界は広がっていった。広く清潔な空間が、ダンゴムシの前に現れた。「ここから出してくれよ!」とダンゴムシは叫んだ。
しかし結果的に、二人は仲直りし、もとに居た場所へ戻ることができたのである。だがその理由を話すべきときは、
今ではない。
[2020年執筆]
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