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ズルズル夢にしがみついていた元Jリーガーは、なぜ過去の栄光、未練を手放せたのか?~戦力外Jリーガー社長の道のり6

21歳でガンバ大阪から戦力外通告を受けビジネスの世界に飛び込んだ私の物語を連載でお届けしています。
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夢をあきらめないことがいいこととは限らない

日本中を熱狂の渦に巻き込んだ2002年日韓ワールドカップ。その次の年、私にとってJリーグ3年目の夏は、Jリーガーとしてのキャリアが終わった夏でもありました。

「3年目までに結果を出せなければゼロ円、つまり戦力外通告の可能性が高い」
誰も言葉にこそしませんが、過去の先輩の契約状況などを見る限り、「3年一区切り」はかなり信ぴょう性の高い基準でした。

その年一度も公式戦に出場できなかった私は、ガンバ大阪の強化部から呼び出しがあった時点で「ついに自分の順番か」というあきらめにも似た気持ちがありました。

ガンバ大阪の戦力外通告は、私にとってJリーガーという立場を手放すチャンスであり、新しい扉を開いてくれた幸運だと、今では本当にそう思っています。しかし、そういう心境になるには当然時間が必要でした。

実際には、「クビ」を言い渡された時点では、自分の実力不足を棚に上げ、現実から目を背け、まだできる、チャンスさえもらえれば、自分より下手な選手、可能性がない選手がほかにいる、違うチームでなら……etcと、他責志向の内向きな文句ばかりを募らせていたのですが、ここから抜け出して、次のキャリアに踏み出すためには、さらなる”痛み”を経験しなければいけませんでした。

『プロ野球戦力外通告』を地で行くトライアウト

まだ21歳、「こんなに早くプロサッカー選手としてのキャリアを奪われてたまるか」、「他人に自分の夢を奪わせてなるものか」、「絶対に見返してやる」という気持ちにあふれていた当時、プロサッカー選手でい続けるために選択したのは、トライアウトでした。

ガンバでは難しくても、ここで声がかかればまだJリーガーでいられる。
TBSの人気番組『プロ野球戦力外通告』ではありませんが、まさにあの心境でトライアウトの結果を待ちましたが、待てど暮らせど私の電話が鳴ることはありませんでした。

この時点で、他責思考を自責思考に改め、私の人生のテーマでもある「前向きな撤退」をする決断ができたのかというと、実はここでもまだ往生際悪くあがくという選択をしていました。

JFLなら何とかなる? 何ともならなかったキャリアの終わり

Jリーグは無理でもカテゴリを下げて、再起を図る道もある。

あきらめきれない私は、JFLに所属していた佐川急便大阪SCでプレーすることを選びました。当時のJリーグはJ1、J2しかなく、その下にアマチュアのJFLがあるという組織構成。

レベルの落ちるJFLならばテクニックやスピードが評価され、再び輝きを取り戻してJリーガー復帰の道が開けるという私の思いは、もろくも崩れ去りました。

私がJリーガーという成功体験、過去の栄光を手放せたのは、佐川に移籍してから4カ月目のことでした。

正直に言って、JFLでもサッカーの実力で通用しなかった。これに尽きるのですが、もしこれだけなら、誰かのせいやコンディション、環境のせいにしてずるずるサッカーを続けるという選択もあったかもしれません。

しかし、アマチュア契約である佐川では午前中に「仕事」をしてからサッカーの練習をするという、これまでにない経験が待っていました。

与えられた仕事は、倉庫での荷物の仕分けや運搬作業。Jリーグに戻るためにプレーを続けている私にとって、午前中の倉庫での仕事は、作業でしかなく、楽しくも充実もなく、苦痛ですらありました。

呪縛から解いてくれた「仕事」への向き合い方

「なんでこんな楽しくないことやらなあかんのやろ?」

ずっとそう思って4カ月を過ごした時、突然、自分の過ちに気が付きました

自分が「作業」だと思っていたものは、誰かにとっての立派な「仕事」で、私が経験するサッカー以外の初めての仕事だったはずなのです。

プロサッカー選手になる前の私なら、午前中の仕事もどうやったら効率よくこなせるか、より多くの荷物をさばけるかの工夫をして、目の前の仕事を楽しむ努力をしていたはずです。

そういう考え方がサッカーの練習を通して染みついていたはずですし、勉強のやり方、習熟度の上げ方もサッカーの上達プロセスに似ているなぁと感じて取り組んでいたくらいですから、仕事の工夫がサッカーにも生きるという考え方をしていたはずなのです。

これに気づいた瞬間、「他責志向の呪縛」が解けました。

Jリーガーになってから初めて自分を客観視し、プロサッカー選手としてはもちろん、社会人としても「ダサい自分」が見えてきたのです。

現状のままここでサッカーを続けて、Jリーグに戻れる可能性はあるのか?

認めたくないけど、可能性はよく見積もって5%あるかないかでした。
22歳とはいえ、もうサッカー選手としての伸びしろには限りがある。そして22歳だからこそ、こんないい加減な「仕事」を続けていてはいけない。

22歳は、大学を卒業した同級生が就職する年齢でもあります。限りなく絶望に近い5%に自分の大切な人生をかけるより、それ以外の可能性にベットすべきではないのか?

引き際を決めた瞬間、私の人生において唯一の、そして最悪の ”停滞期”は終わりを告げました。

続く

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