いいわるい

「いい」「わるい」には気をつけて

「いい」「わるい」って何?

例えば、
いい映画、わるい音楽
いい仕事、わるい研究
自由はいい、差別はわるい
かわいい、かっこわるい
いいことをしよう、わるいことをしちゃだめ

などなど、人がどんな行動をするかのコンパスとして「いい」「わるい」があるかと。

似たものに、正義・悪とかも。力は正義、悪の枢軸、かわいいは正義。
「~すべき」「~しなきゃ」も同じ。

そんな行動や考えを左右する「いい」「わるい」。最近のジェンダー論争やらSNS炎上をみるかぎり、「いい」「わるい」がわからなくなっているように見える。

というわけで、「いい」「わるい」は何かを見つめなおして気をつけてみようよ、ってお話です。行動と思考が「いい」「わるい」によるなら、「いい」「わるい」の先に幸せがあるから。

まず、どんな種類の「いい」「わるい」があるか?

社会派、法律派、国家派

わかりやすいのが、法律を犯すのはわるいこと、というもの。法律は国家に所属する人間がフィクションで考えた罰則ルール。

しかしながら、法律は罰則のみってのがウケる。わるいことが明確だけどさ、法律ではいいことはわからない。

人を殺すことはわるい →わかる
人から盗むのはわるい → わかる
何をしたらいい→わからない

国、社会にとって、いいは何で決まっているの?

社会派でいうならマナー・エチケットでも「いい」「わるい」がある。マナー・エチケットにはいいこともある。でも マナーの「レディファースト」も「いい」のか「わるい」のかわからなくなってるかなと。人によってルールが違うのでよくもめるね。

というわけで、社会派の「いい」「わるい」はあやしい。

宗教派

宗教はわかりやすい。神話の絶対的な真理で「いい」「わるい」が決まるから楽ちんなのが魅力だ。だてに歴史がながくない。
いろんな宗教で、欲に溺れるのはわるい、儀式をしないことはわるい、信じることはいい、節度ある生活はいい、とされている。昔から信じることが救われるのは、神という設定を使いつつも福利厚生を高めるからだろうね。

ただ、絶対的なものなんてないでしょう。あるしても、わからないでしょう。わかったふりして絶対といいはり、アップデートのない設定はきつい。

というわけで、宗教の「いい」「わるい」はあやしい。

資本主義、イデオロギー派

「○○主義」っていうイデオロギー、「○○をしていけば人は幸せになる」っていう信仰形態の一つ。世界支配シェアNo.1のイデオロギー「資本主義」だって、アダム・スミスが

資本で人を雇うことを増やせばハッピー
雇って増えた利益で資本が増えればハッピー
このスパイラルを広めて社会を幸せにしようぜ

っていうイデオロギーを掲げた恩恵だよね。ちょっと現代語訳だけど。

資本主義の目線だと、もうかることいい研究、罰則でもうからなくなるリスクがあるのはわるいビジネス、いい会社にはいれるいい大学に行くことがいいこと、働かないのはわるいこと、ってなるよね。

お金の本質は信用っていう見えない設定だし。そういう設定前提なので、資本主義含め、イデオロギーは宗教に近い。神話があるかないかの違いなくらい。

というわけで、イデオロギーの「いい」「わるい」はあやしい。

人権派

平等とか自由とかで「いい」「わるい」を決めることもあるかと。平等で人はしあわせになれる、って信じる。これはイデオロギーです。アメリカ独立宣言にある

全ての人間は平等に造られている(誰が作ったかはナイショ)

って文言は、キリスト教の人が造った秘密の設定を含みますね。
設定だから、自然目線でいうと食物連鎖は平等じゃないように見えるけどどうなんでしょう、とか疑問いっぱい出る。

自由も同じ、人が決めた設定ですね。自由じゃないのは本当にわるいのか。幸せな不自由はないのか。

あと、自由と平等のイデオロギー同士が矛盾していたりする。上に立つ自由とかさ。

というわけで、自由・平等で決める「いい」「わるい」はあやしい。

生物派

イケメン、かわいいは正義、はやく結婚しなさいよとか、このあたり遺伝子を増やすことはいいっていう生物派な考えですね。

種を増やせばいいとは思えないことも多々ある。食糧難で飢餓が起きようがいいことなのか?って。

好きなことは「いい」、脳内物質が快感を与えることをものさしとしているから同様。快感に溺れることはいいこととは限らない。 例えば、好きなものを好きなだけ食べると健康にいいのだろうか?

というわけで、生物派の「いい」「わるい」はあやしい。

科学派

科学的な「いい」「わるい」はとても堅そうにはみえる。神話と違って証拠証明があって、そこからつくったルールだから。人間が設定したルールではなく、自然をめざしたルールが科学だ。

しかしながら、いい研究ってもうかる研究じゃない。つまるところ、科学は資本主義べったりだ。例えば人間や動物の幸せについては、儲かるかわからないからほとんど研究されてない。あと「ポメラニアンを着飾る」「サボテンを歩かせる」「魚に歌わせる」とかどうでもいいことも研究されない。

もうかる研究ばかりが優遇される。もしくは国にとって都合のいい研究。資本主義・国家主義の「いい」「わるい」があやしいなら科学も同様。イデオロギーのシェアが変わったら、科学の「いい」「わるい」も簡単に覆る。

っていうか、科学でわかってないことの方が多いし。「なぜ接着材はつくのか」「光合成のつくりかた」「自由な意志はあるのか」とか全然わかってない。あと、天動説のように、いま信じていることがいつ誤りになってもおかしくないというのもある。

というわけで、いつ覆されてもいいという脆弱さが「いい」ところでもある科学の「いい」「わるい」はあやしい。


などなど他にもいろんな派閥がある。全て想像上の設定なのであやしい。
んじゃあ、あやしくない「いい」「わるい」はないのか。それは、どんな仕組みで「いい」「わるい」が来ているかを知ることにある。

いい、わるいはどこからくるのか

宗教的には神からきているが、科学的には脳からきている。脳のめんどくさいからできた、行動をGO・STOPを判定する高速審判の仕組みとされている。オートなジャッジメントシステム。

具体的には脳の扁桃体が快・不快で学習した判定から来ている。扁桃=アーモンド形をした裁判長なわけです。その裁判長は、上にあげたような想像上の産物であるルールにより、情動を伴って判定力を鍛え上げます。お母さんにほめられた=いいこと→お母さんのいうことはいいこと、みたいな。

つまるところ、裁判長をたてたがるのは人間のくせで生存戦略ですな。
いい」「わるい」を持ってしまうこと自体が人間性なのです。

いい、わるいに気をつけて

まとめ。
何がいいかっていう結論はないです。それこそ「いい」「わるい」の「いい」「わるい」を決めたらアーモンド野郎の思うつぼ。

なんでこんな曖昧な結論なのかというと、人々が幸せでありたいと思うものの、その方向性がよくわかってないから。きっと科学的にルールは創っていけるはずなのに、いろんな想像上の設定が邪魔をしている。

私たちは幸せについてよくわかってんです。だから私は、よくわかってないことを知っている裁判長を選んでます。でも判定がないと行動できないので、思い込みを捨て創造を試みるという「イノベーションがいい」というルールブックを持っている。

ひとや自分の言葉で「いい」「わるい」を見つけたら「それは想像上の設定だから。いいかもしれないし、わるいかもしれないし。思込みを外すにはどうしたらいいかな。」って裁判したがる人間性を許し、わからない前提で行動につなげる、そんな裁判長。まだまだオートジャッジメントのクセが抜け切れてないアーモンド野郎ですが…。

あなたも裁判長を決めることができます。想像上のルールブックだとしても、自分で選べる。あなたにも、鍛えあげてしまって神のルールを知っているがごとく判定してしまっている裁判長がいるかもしれない。そう感じたら、裁判長を意識してみてほしい。

自分の「いい」「わるい」を判定している存在を知ろう。それには気をつけるだけでいい、そうしたらハッピー、というお話でした。

よし、いいノートになったかな。

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