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わかり易い絵を描けば伝わるという誤解 #ミーティングで使える手描き術

分かりやすい絵を描けば伝わる、というウソを信じている人が多いというよりもほとんどだ。この記事では筆者がどうしてそれをウソと言うのか、それを乗り越える方法は何かについて語っていきたい。
※この記事は2021/04/04に一度投稿され7つほど「いいね」を頂いておりましたが、筆者の操作ミスで削除してしまったため再投稿となっております。

様々なバックグラウンド持つ人々がつながる

 インターネットやスマートフォンの普及は通信に係るコストを極限まで下げた。それまでは距離・時間により接点がなかった人々によるコミュニケーションが容易に実現できるようになった。昨今のオンライン・サロンコミュニティ流行りなどはこのコミュニケーションの容易化が背景にあると考えている。

どうして見えるカが必要なのか

 しかし、コミュニケーションのためのコストは下がったものの相互理解に係るコストは上昇している様だ。図にもあるように接点が少ない様々なバックグラウンドの人々の集まりではそもそも共通了解している事項(のりしろ)が少ないためである。

共通了解のために経験を共有する

 のりしろを増やすためにはどうすればよいのか。哲学者の西研は「哲学は対話する: プラトン、フッサールの〈共通了解をつくる方法〉」で人々の共通了解は得られると解く。
 別の例で言えば「同じ釜の飯を食う」ということわざだ。四六時中同じ場所に居て、様々な同じ経験をすることで相互理解が深まるという話である。言葉でいくら説明されてもよくわからないが、一緒に同じ経験をすることで相手のことが分かるという経験をしたことはないだろうか。結局のところ同じもしくは同等の「経験」を共有することが共通了解には必要なのである。
 ちなみに共通了解が行き過ぎたものが子の親離れである。親の一挙手一投足から子は親の感情や考えが分かってしまう。不機嫌などの不快な状態も伝わってきてしまう。共通了解も行き過ぎるとうざくなる。
 話がそれたが、共通了解は必ず得られる。しかしそのために経験の共有が必要でありそれには時間とコストがかかるのだ。同じ時間に同じ場所にいる。同じ経験をするための対象がそこにあるということにはコストもかかる。

相手が理解したかどうかをフィードバックにより知る

相手に伝わったかはフィードバックをもらうしかない

 同じ経験をするの代わりに「経験を語る」「語られた経験を理解する」というやり方もある。Aが語った経験をBが理解することで同じ経験をしたことと等価になるからだ。
 情報の受信者が理解した内容を発信者に伝えると発信者は受信者が正しく理解したことを知ることができる。その逆は無い。絵や図を使ってフィードバックすることでさらに効率は良くなる。
 それなのに殆どのひとは発信者側が受信者にとって分かりやすく図解等をすれば良いと考えてしまう。ほとんどの人が「分かりやすい絵や図を描きたい」と言う。この発言は理解の本質の理解に欠ける。

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 これは理解とは何なのかを考えれば簡単に分かる。理解とは受信者側の問題である。ヒトは知識(記憶)に無いものを知覚することはない。発信者は受信者の知識(記憶)の内容を知り得ない。確かに日本に住み、学習指導要領にそった初中等教育を受けていることから共通事項が無いとは言えない。
 しかし、ヒトが全てを覚えていることはない。また、その捉え方も千差万別である。原理的に受信者の知識を予め発信者が知った上で伝えるということはできない。

絵を描くことが当たり前の世の中にする

 コミュニケーションに視覚情報を利用できる人々はすべからく絵を描くことが当たり前になっていることが望ましいと筆者は考えている。言葉によるフィードバックはとかく時間がかかる。複雑なものに関してはなおさらである。時間は有限であるから結局フィードバックが不全になる。よってミスコミュニケーションが発生する。
 視覚情報によるフィードバックをする人が増えれば時間が短縮化される。これによりミスコミュニケーションが減る。とはいえ絵を描けるようになるための習熟という対価を払う必要がある。
 一方でこの対価は非常に高いものにつくと思われがちである。大抵の人は自分自身に「絵心が無い」と言う。それもウソである。この話はまた別の記事で述べることとする。

参考文献





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