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先日漫画家のヤマザキマリさんがテレビに出ていたけど面白くて釘付けになってしまった。知的でユニークで可愛らしくてさらに大好きに!

「テルマエロマエ」も出た当初からはまってしまい、自宅にある数少ないマンガ本。キンドル的なものでマリさんのエッセイ漫画もいくつか読んでいました。

国際結婚(しかもラテン系というのも共通だったので)をしたものとして共感できるところもたくさんある。でもそんなくくりでおさまる人ではないなってつくづく。

この人は生粋の地球人なんだな、と。いや、地球人というか大気圏人。(この番組を見ていたらきっと言わんとすることはわかるはずw)

お母様の育て方はもちろん、幼いころから世界をあちこち渡り歩き、自由な感性を持ってそれらと共存してきたからこその「今」なんだろうと。何にも囚われない自由な精神をお持ちですっごく素敵。

一方で、じゃあ幼い頃から海外暮らしだったら、そんなふうにフレキシブルで枠にかたどられていないハートが形成されるのか、と言ったら全然そうでもないと思う。

家族の赴任で海外のインターナショナルスクールで過ごしていた時は、(国籍はどこであれ)同じ生活レベルの似たような家族ばかりだったけれど、帰国して公立の学校に行ったら全く違くて子供が面食らってしまい、苦手意識を持ってしまって困る・・・

という話を以前友人から聞いたことがあるけど、そういうことは多いと思うなあ。

ほんとは、どこにいても実は多様性は転がっていて、それを自分のアンテナで捉えられるか、そして違いとして自由な気持ちで受け止められるか。こちらの方が大切じゃないかと。もちろんその友人の子はこれからきっと育まれると思う。

たとえばお金持ちとか、ちょっと貧しいとか、シングルマザー、時にファザーとか、何かしらの見えるor見えない障害を持っているとか、LGBTQとか、海外からの移民だったりとか、両親どちらかが外国人だったりうちのような国際結婚だったりとか、・・・違いなんてあげたらきりがないんだけれど、どこに住んでいてもいろんな人がいるものね。

自分が普通と思っていてもそうでもない場合もある。私は5人兄妹で育ってて家業のようなものもあり、それが普通だったけど、同級生からすると相当ユニークだったようだし。(後から同級生に言われたことがあります。)

日常は「違い」で溢れている。「違う」人々により触れられる環境を自ら選びとるということ、それをただの「違い」として自由な気持ちで捉える土壌を育てること。自分にもし子供がいたなら、そこを大切にしていただろうなと思うし、今の自分自身ももっとそこに近づきたいな。

もちろん、そんな気持ちで日常とは違う、海外の想定外の「違い」に出会ったら、きっともっと枠が外れるんだろうなとも思う。

いい感じで思い込みが外れているこの数年だけれど、きっとまだまだ外せるものはあるはず。もっと自由に、もっと自然に。

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