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わたしの人生を変えた出会い。

こんにちは。今日はわたしが核問題に関心を持つきっかけになった、長崎の大切なお友達のおはなしです。

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田中安次郎さんとは、わたしが20歳のときに初めてお会いしました。この写真が出会った当時のもの。なので7年くらい前です。2人とも若いです笑
わたしが長崎に訪れたのはサークルの夏合宿の一環でした。その前に広島に行き8月6日を過ごし、長崎にやってきました。はじめての平和式典や現地で聞く被爆者の方のお話はあまりにも辛くて苦しくて、「核兵器」という強大なものを目の前に、大学生にわたしにできることなんてないんじゃないかと思っていました。

長崎では主に被爆遺構を巡りながら証言をする「被爆さるく」が特徴的です。2時間以上かけて長崎の町を歩きながら、ガイドの方がお話をしてくれます。

やすさんはにこにこしながらわたしたちを出迎えてくれました。そして静かに、なぜ長崎に原子爆弾が落とされることになったのか、なぜ日本は戦争をしたのかの歴史から話始めてくれました。

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まず訪れたのが爆心地公園。この公園には写真のようなモニュメントがあるんですが、その上空500メートルで原子爆弾がさく裂しました。原爆を「落下」という表現を使う人がいますが、「落下」は無意識的にした行為であり、原爆は意識的に落とされたものであるから「投下」と使うのが正しいとやすさんは言います。

この公園は被爆者の方にとっては神聖な場所です。ここを中心に波紋のように死が広がっていきました。爆心地が公園になっているのが長崎の特徴ですが、長崎でお参りするというとみんな平和公園に行きがちです。平和祈念像があることで有名なのか、平和公園に行きがちなんですが、爆心地公園はそのすぐ隣にあります。やすさんは「ぜひこの場所でお参りしてほしい」と話していました。

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続いて訪れるのが平和公園。平和公園に正面から入るとすぐに、「平和の泉」があります。この噴水は鳩の羽ばたきを示していて、刻々と表情を変えていきます。しかしやすさんは「当時は水も飲むこともできすに亡くなった方がたくさんいます。だから水をこういう風に使うのはなんだかもったいないなあと思うんです」と。噴水の水はきっと無駄使いではないのですが、それは被爆者だからこそ気づける視点だと思います。

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次に訪れるのが、世界平和シンボルゾーンにある中国からの「乙女の像」です。この公園内には平和の尊さを訴えるモニュメントが数多くの国から届けられています。ですが、中国からの美しい像だけは、像の周りに柵がしてあり、監視カメラがつけられています。なぜかといえば、1986年にこの像に赤いペンキがかけられた事件が起こったからです。日中関係の悪化に伴い起こった事件ですが、平和の象徴である像にペンキをかけたことで長崎市民は大激怒しました。戦争が終わっても、民族同士の対立は終わっていないことを表した事件です。「こんなことはも二度としてはいけない」とこの像のことを細かく説明してくれます。

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続いても平和公園内にある「長崎刑務所浦上刑務支所跡地」です。建物はすでに取り壊されてしまいましたが、骨組みは残っています。爆心地より北に100メートルの地点にあり、爆心地に最も近い建造物でした。刑務所内にいた職員19名、官舎住居者35名、受刑者及び刑事被告人81名(うち中国人32名、朝鮮人13名)計135名は即死でした。この場所は日本の加害の歴史を考えるきっかけにもなります。ここに収容された海外の人々は強制労働で連れてこられた人たちです。そういう人たちも原爆の被害にあっていることを、やすさんは忘れずに伝えてくれます。

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こちらも世界平和シンボルゾーンにある「未来の世代を守る像」です。これはオランダから寄贈されたもので、やすさんが一番すきなモニュメントです。「お母さんって普段はやかましいけど、でも「この子のためなら私の命どうなってもいいから助けてください」って絶対言う。そんなお母さんの強さを象徴した像です」と説明してくれます。そしてそのときにいつも言ってくれる言葉がこちら。

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「母の手あったか魔法の手 その手で育った私幸せ!」という言葉。やすさんのこの言葉を聞くとお母さんを思い出します。平和って家族団らんからなるものだから、まずはそういう平和を大切にしていきたいと、わたしたちが身近にできることから教えてくれるんです。

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平和公園で最後に向かうのが平和祈念像です。これはよくパンフレットなどで出てくるので、見たことがある人も多いかもしれません。1955年8月8日に完成した祈念像。これは当時の価格で4000万円かかりました。ですが、当時被爆者の対しての金銭的な援助はなく、大金を使って祈念像を建てる前に、援助をしてほしいとの動きもあったようです。

やすさんは「なんで平和の象徴が男の人なんだろうね」と疑問を投げかけてくれます。確かに言われてみるまで考えもしたことがなかったですが、なんで男性なんでしょうか?昔は男性優位の時代だったからかな?なんか今も若干その名残は残っているように感じるけど。

この後には城山小学校、山里小学校、如己堂、浦上天主堂に連れて行ってくれます。もちろん日によっては別の場所も案内してくれますし、坂本龍馬を巡るさるくもしてくれます。

やすさんが案内の最後に必ず伝えてくれる言葉があります。

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それは「たったひとつのい生命だから」という言葉です。
「この言葉の次に続く言葉を考えてみてください。それが宿題です。「たった一つの命だから、今を大切に今日大切に、人に優しく、自分に優しく」私はこう生きたいと思っています。さあみんなはどう生きていきますか?」

優しく学びながら生きていこうと。学ぶこと、伝えること、政治に関心を持つこと、その全てが核兵器を無くすことに繋がっていくと教えてくれました。また、原爆の悲しい記憶だけにとどまらず、日本の加害の歴史もきちんと教えてくれます。
やすさんは今までわたしが出会った被爆者の方々とは違う視点から「原爆とはなにか。平和とはなにか」を伝えてくれます。だから、わたしはやすさんの話を聞き終わったあとにいつも希望が持てます。「わたしにもできることがあるかもしれない」と。そんなことを思いながら、7年間被爆者の方々と関わることを続けてきました。きっとやすさんと出会ってなかったら、違う道を歩んでいたと思います。いろんな人にやすさんと出会ってほしいなあ。

友達が「なくしたい」と言っているものを、わたしも「なくしたい」と思う。それがわたしの平和活動の原点です。だからわたしは「核兵器は必要ない」と声を上げ続けます。

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