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ドイツリートのプログラム再考

10月…うれしい実りの秋がやってきました。毎年この時期になると私は、サツマイモとリンゴ(紅玉)とドライレーズンを蒸し煮にして、シナモンをかけた温かいおやつを作ります。外を散歩するもよし、家の中でほっこり過ごすのもよし…。じっくりと詩を読みながら、ドイツリートを聴くもよし…!

さて、先月発行された無料のクラシック情報誌「ぶらおぼ」10月号に、「コンセプト・アルバムは難しい?!」という記事が載りました。この話題、ここ数年来、私自身も折に触れて考えていたテーマでもあり、また「ぶらおぼ」だから読まれた方も多いだろうな…とも思いながら、今回の投稿のテーマを「ドイツリートのプログラム再考」にすることにしました。

その記事で指摘されているとおり、最近の歌曲のCDでは、特定の作曲家の作品を集めるといった従来のオーソドックスな歌曲リサイタルのプログラムとは異なる新しい傾向があります。作曲家で括るのではなく、むしろ特定のイメージをテーマに掲げて、それに見合う歌曲作品を並べて全体を構成するというものです。記事で紹介されているソプラノ、アンナ・プロハスカのCDは「失楽園」、旧約聖書のアダムとイヴの物語をテーマとし、20名の作曲家の歌曲が並べられています。バリトンのベンヤミン・アップルのCDは「故郷」がテーマで、出身地ドイツから近年イギリスへ拠点を移し活動しているアップルご自身の半生が、14名の作曲家の作品を並べたプログラムに反映されています。ぶらおぼの記事は、このような最近の演奏者のクリエイティブな姿勢を評価しつつも、「作曲家・作品よりも演奏者に比重」のかかったプログラム構成のあり方に問題を投げかけた内容となっていました。

確かに…考えさせられます。最近の歌曲CDはプログラム構成の点で、明らかに型破りのものが見られます。ぶらおぼの記事で紹介されたのとは若干意味が異なるタイプかもしれませんが、2015年のアンナ・ルチア・リヒターのCDは、「リーダークライス」(Liederkreis =”歌の環”の意)と題され、シューマンの著名な歌曲集《リーダークライス》Op.39の録音と思いきや、実際はこの曲集の全12曲をバラして、前・後・間にブリテン、ブラームスの歌曲と即興演奏を混ぜて、それこそ「歌の環」として全体を再構築するというアルバムを作っています。確かにリヒターのシューマンOp.39が聴けると思って楽しみに聴き始めたら、曲間に違う作曲家の音楽が入ってくるのですから、え~!残念…と正直感じた方もおられたかもしれません。

私自身はこのような最近のCDを聴いて、…むしろ歓迎というか、驚きはしつつも新鮮な印象で楽しく聴き、刺激を受けました。私も歌う立場として、やはり時にはこのような「物語」やメッセージを伝えたい、という思いがあるのは理解できます。それが「作曲家をないがしろにして…」と思われるなら、う~ん…考えてしまいますが。ただ初めからテーマありきで選曲するというより、むしろ歌曲のたくさんの詩と向き合ううちに自ずと物語なりイメージが浮かび上がってくるといったほうが、実際の感覚に近いかもしれません。例えばシューベルト限定でプログラムを組むにしても、曲の詩的なつながり・連環を意識する…ということは、演奏者として多かれ少なかれありますし。また2012年でしたか東京の白寿ホールで聴いたサンドリーヌ・ピオーのリサイタルは、「夢」がテーマで作曲家は7名。CDにもなっていますが、あれも今思えばコンセプト・アルバム?…ざっくりとした「夢」が括りでしたし、作曲家ごとにまとめられた構成でしたので、あまり違和感なく受け止められていたと思いますが。最近、目新しく思われているとしたら、1アルバムにつき、扱う作曲家の数が顕著に多かったり、曲の配置がランダム(作曲家の国籍や時代区分のの点から見て)ということでしょう。

最近このようなコンセプト・アルバムは、実は歌曲に限らず器楽ジャンルでも散見され、クラシック業界全体の問題かもしれません。CDが売れない時代だからこその販売戦略のひとつ…とも。ただいずれにせよ、ドイツリートに限って考えてみた場合、このような新しいプログラムの傾向が生まれた背景には、演奏現場での様々な事情が絡んでいるとも思います。

名伴奏者として知られるヘルムート・ドイチュは、著書『伴奏の芸術~ドイツ・リートの魅力』(鮫島有美子訳、ムジカノーヴァ叢書、1998年)の序文で、「ヨーロッパではこの100年以上前から、”リーダーアーベントの危機”ということが言われ続けている。」と述べています。「リーダーアーベント」( Liederabend ”歌曲の夕べ”)」と呼ばれる、いわゆる歌曲リサイタルには、2000年代初めウィーンで過ごした私も通いましたが、楽友協会ブラームスザール(小ホール)など熱心なリートファンがいるんだなあと感心したものの、客席を見渡すとご高齢の方が中心。若い人が少ないなあ…と思った記憶があります。音楽の都ウィーンにいても、一般の若者層のクラシック離れについては話題に上りましたし、リートとなると本当に少数派。日本でもその傾向を顕著に感じますが(私がこのnote投稿を始めたきっかけもそこにあり)、ヨーロッパでも切実な問題なのです。

そのことを考えますと、ヨーロッパで活躍し始めた若手歌手たちが、ドイツリートに真剣に向き合いリサイタルを開催したりアルバムを出すにあたって、従来のままでは(特に同年代には)通じない、何かアイデアや工夫を…と考えるのは当然なのかもしれません。実際、先のヘルムート・ドイチュの著書では、「コンサートの形態」と題する一章で、プログラムの立て方の問題について興味深い指摘がいくつもあります。ご夫人のソプラノ歌手、鮫島有美子さんの伴奏を務めた経験から日本の事情にも詳しいドイチュの意見は、今もって色あせてはおらず、これも日本の演奏家たち必読の書です。(伴奏者の側からの意見という意味では、前回の投稿で紹介したジェラルド・ムーアの著書に続く専門書。ムーアよりもさらに具体的・実践的な指摘に富み、歌い手側にとっても大いに参考になります。)

19世紀のリートの演奏形態については、大きなテーマなので今ここでは深入りを避けますが、現代において、熱心なリートファンが期待するようなシューベルトの《冬の旅》ツィクルス全曲演奏など、「従来型」と思われるリーダーアーベントの形ですら、決して長い歴史を持っているわけではなく、絶対的なものではありませんでした。19世紀初頭に生まれた「コンサート」社会においては、もともと器楽作品、オペラアリア、リートとがごちゃまぜのプログラムが当たり前。リートの演奏のされ方そのものが、19世紀から現代に至るまでの過程で、社会とともに変遷をし続けてきている…。そのことを考えると、ここ最近の変化についても、ある意味、社会を反映した自然な結果のように思えてきます。

ドイツリートを勉強した熱意ある演奏者であればあるほど、その魅力をなんとかして伝えたいと思っているはず。もちろんシューベルト、ヴォルフ…じっくり濃いプログラムで聴いてもらえたら嬉しいけれど、現代の忙しい仕事帰りの人たちに、リサイタルでそのようなプログラムは重すぎるかもしれない。CDにしたところで、難しいと敬遠されるだけかもしれない。むしろ、テーマや物語を設けて様々な作曲家の歌曲に触れる入り口として、気楽に聴いてもらえないだろうか。本来歌曲は、恋愛、孤独、憧れ、死、夢…など、本当に普遍的なことを歌っているにすぎないのだから。そうして少しでも馴染んでもらえたら、やがてリーダーアーベントに足を運ぶ人が増えてくるかもしれない。…演奏家の思いはそれぞれでしょうし、「コンセプト・アルバム」と一括するのも良くないかもしれませんが、テーマや構成のセンスが共感しうるものであれば、大いに受け入れられていくものと私自身は思っています。

その上で、ともすると作曲家名で音楽を聴こうとする、クラシックファン特有の「作曲家」志向の聴き方に、ひょっとしたら一石を投じるものでもあるかもしれない…と私は思います。歌の作品には「民謡」のように無名の作者による名曲というのも多数存在します。音楽とは、生まれた瞬間から一人歩きをして歌い継がれて伝わっていく…といった性質を含み持つものなのだと考えれば、作曲家名で聴くのではなく、音楽そのものを、そこで歌われている精神そのものを聴こうじゃないか…という主張もあって当然と思います。私自身は、普段接するクラシック音楽で、作品を通して作曲家の精神と対話している…という側面は決して取り去ることができないと認めますが、一方で、舞台で歌曲を演奏しているときにお客様に伝えようとしているものは、詩の中身なのですよね。私たちは作曲家の様式を学び、意図を探り、音づくりをするけれど、すべては歌の魂である「詩」を伝えるため。言葉を語る歌い手は、どの演奏家よりもそのことを感じているはずです。

そう考えれば、歌曲の詩の世界に着眼して、テーマを設けてプログラムを構成することは、演奏者側にとってはある意味、自然な結果とも言えます。もしかすると、難しく思われがちなクラシック音楽をわかりやすく伝えようとする試みとして、日本で一般的になりつつある「お話(解説)つきコンサート」に近いような役割があるといえるかもしれません。もちろん、そんな工夫は要らない!純粋に音楽を聴きたい!という方もおられるでしょうから、賛否両論ありそう。ただ、そうした解説や企画によって、通の聴き手の方にとっても時には新たな発見があったりするのも確かでしょう。

歴史あるオペラ作品が現代の演出で新しくよみがえり、そのたびに称賛されたりブーイングを受けたりしながら変容していくのと同じく、リートも新しい試みによって、批判されたり、解釈し直されたり、新たな共感を生むことになったりして、存続し続ける…歌い継がれる…ものかもしれませんね。日本の場合は、外国語の言葉の壁という別問題もありますし。…掘り下げるとキリなく今回はこのあたりで失礼しますが、いずれにせよドイツリートが現代社会にどう生きていくのかは、表現者の姿勢にかかっています!

【今日のお薦め】本文中でも紹介したベンヤミン・アップルによる2017年のアルバム。原題は「Heimat 故郷」。昨今のコンセプト・アルバムのうち最も共感しやすいテーマかもしれない。シューベルトやヴォルフなど個々の作品の演奏水準は高く、ドイツリート入門としてもお薦め。テーマは彼自身のプライベートな「人生の旅」なのだが、ある意味《美しき水車小屋の娘》《冬の旅》の時代の若者とは異なる、現代版の若者の「さすらい」を描いたとも受け取れる。フィッシャー=ディースカウの最後の弟子であるアップルが、これからのドイツリート界の旗手となるか注目。






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