音読が第一であることについて

カタカムナ音読並びに日本語古典音読を体験した者は、それまでと異なる言語感覚を加味したことになる。
日本語の一音一音の意味とリズムー多くは和歌の音から伝わるものであるが、和歌をもとにした古典散文からも体得できる。
これを体得した者は、相手の言うところをよく聞き取り、自分の思うところを直感的に口にすることが可能になる。テキストもすらすら読めるようになる。
可笑しいのは、皆そもそも自分の国語力が高かったと思うところである。
しかし、自分が他人より自由に文章を書くことができるようになっていることがわかった時、そこにそれに先行する音読の体験とその効果があることを理解する。
生きていく上で、さまざまな能力が必要だろうが、この人とコミュニケーションする言語力は誰もが高めるべきものである。
そして、これを子どもの時に体得させれば、その子どもは日本語で行うすべての学習で有利なアタマの状態になる。
極めて単純であるが、これは本当のことである。
これまでどれほどの者が、私の元で日本語音読を学び、言葉達者に、また自己学習、自己発信できるようになったか、そしてその力によって合格や進学を果たしてきたか数えきれない。
読者の中でもまだ体験したことがない人は、別に私にのところまで来て習わなくても、すでに各地に音読指導者の資格を持った人たちがいるので、とにかく一度子どもを連れて体験させてほしい。
半世紀近くにわたって受験に精通した人間が、とにかくまず最初にこの力を与えてからその先があると主張する理由を体験理解してほしい。
特に小学入学以前に、この音と発声を体得した者は、周囲に「天才」と思われる可能性もある。
子どもに本当の学力をつけたいと思う親は、この音読を学ばせることに躊躇してはならないと確信する。

雷が落ちて停電もあった昨日夕方、電車が止まったためにやや遅れてきた小5男子生徒が、
「今日は音読がやりたい」と言うので、理由を尋ねると、
「学校で音読の授業があった」と言う。それは平家物語の冒頭や竹取物語だったと言う。
私が教える平家物語の冒頭の発声は、「謡い」なので、それをそのまま人前でやると仰天されるのであるが、それをやってみせたのか。とにかく「今日は平家物語が読みたい」と言うので、高校古典教科書から『木曾殿の最後』を読むことにした。
これは、教科書ページで6ページ余りであるが、鐙(あぶみ)踏ん張り・・・、キンプクリンの鞍置いて・・・、と元気よくリズムよく一気に通読した。途中解説を入れながら進めるが、約30分で読了。
あとでこれを聞いて驚いた母親が、「本当にわかって読んでいるの?」と尋ねると、「もちろん!」と自信満々で答える。
高校授業では、これを5回以上かけて行うことだろう。しかも授業を受けてもそのまま書いてあることがわかるようになるわけではない。
この生徒の最近の国語力伸びはとても大きくて、すでに麻布や筑駒の入試問題で揺るがぬ国語力を見せている。
他の小学生徒からは、「最近劇団四季の団員が学校に来て、先生の音読のように、大きく口を開けて「ア」とか「イ」とかやっている」と言う。
これを聞いて、その団員たちにカタカムナ音読を学んでもらい、続いて日本語古典の一音一音読みを教えてくれたらどんなに良いかと思ってしまった。
しかしどうやら薄ら薄ら、学校でも、生徒の国語力を伸ばすために、本格的に音読を取り入れ用としていることがわかる。
やはり子どもの理解力を伸ばすには音読しか手がないと言うことがわかったのだと思われる。
それにしてもどうして劇団員で、教師ではないのだろう。
妙な話であるが、これが「現実」なのである。
この後やってきた高校1年女子とは、徒然草、枕草子、漢文と学校が飛ばすところも含めて、文法解説しながら全部通読。
2学期分の予習を終わらした。もちろんこの生徒は、カタカムナから明治までの音読が終了している。
みなさん、子どもの学力を上げたければ、まずその国語力・言語力を高めておくことが肝要。
それにはまず正しい音読の機会を与えることが親の仕事になる。

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