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「夢を買う男」ショートショート

田中は、街の片隅にある古びた店に足を踏み入れた。店の看板には「夢売ります」とだけ書かれている。何度もこの店の前を通り過ぎていたが、今日こそはと勇気を振り絞ってドアを開けた。

店内は薄暗く、棚には様々な形の瓶が並んでいた。その中には、色とりどりの煙のようなものが漂っている。店主は白髪の老人で、田中が入ってきたのを見て微笑んだ。

「いらっしゃい、夢をお探しかね?」

田中は戸惑いながらも、店主に質問した。「この店で、本当に夢が買えるんですか?」

店主は頷き、棚の中から一本の瓶を取り出した。「この瓶の中には、美しい花畑を散歩する夢が詰まっている。とても癒される夢だよ。どうだい、買ってみないか?」

田中は、その瓶を見つめた。最近、仕事のストレスで心が疲れていた彼にとって、そんな夢は魅力的だった。しかし、価格が気になり、「いくらですか?」と尋ねた。

「君が持っている一番大切な記憶と引き換えだ。」

田中は驚いた。そんな大事なものを手放してまで、夢を買うべきなのか。だが、彼は考えた。日々の疲れを癒すには、何か特別なものが必要だと。

「分かりました。それでお願いします。」

田中は、店主に言われるままに目を閉じた。そして、心の中で一番大切な記憶を思い浮かべた。それは、幼い頃に母と一緒に行った海での思い出だった。優しい母の笑顔、波の音、潮の香り……。

店主はその記憶を静かに取り出し、田中に夢の瓶を渡した。

「これで君の心は軽くなるはずだよ。」

田中は瓶を握りしめて家に帰り、その夜、その夢を見た。鮮やかな花畑が広がり、爽やかな風が吹き抜ける。その中を歩く彼は、確かに心が軽くなった気がした。

翌朝、田中はぼんやりとした頭でベッドに座り込んだ。昨夜の夢は確かに素晴らしかったが、心の奥底にある何かが抜け落ちたような感覚が拭えない。

彼は朝食を取りながら、ふと母親のことを思い出そうとした。しかし、その顔が曖昧でぼやけていた。いつも温かい笑顔で迎えてくれたはずの母の顔が、まるで霧に包まれたかのようにぼんやりしている。田中は焦った。何かが確実に変わってしまったのだ。

仕事に向かう途中、彼はどこか虚ろな気持ちを抱えたまま、あの「夢売ります」の店の前を再び通りかかった。無意識に足が止まり、彼はもう一度その店に入ることを決意した。

店の中は昨日と同じく薄暗く、店主が静かに彼を迎えた。「どうだい、昨夜の夢は楽しめたかな?」

田中は店主の問いに頷いたが、その後すぐに切り出した。「でも、母との大切な記憶がぼやけてしまった。もうあの笑顔をはっきりと思い出せないんです。どうにかして取り戻せませんか?」

店主は静かに目を細め、田中をじっと見つめた。「一度手放した記憶を取り戻すことはできない。しかし、別の夢を買うことで、心の空白を埋めることはできるかもしれない。」

田中は一瞬戸惑ったが、心の中に空いた穴を埋めたいという思いが勝った。「別の夢を見せてください。」

店主は棚からまた別の瓶を取り出し、それを田中に差し出した。「これは、あなたが望んでいる新しい夢だ。暖かな日差しの中、親しい友人たちと過ごす幸せなひとときが詰まっている。」

田中はその瓶を見つめた。昨日よりも少し大きめの瓶で、中には黄金色の光が揺らめいている。彼は一瞬だけためらったが、結局、その瓶を手に取った。

「これもまた、君の中の大切なものと引き換えだ。」

田中は再び目を閉じ、今度は心の中で別の記憶を探した。それは、初めて昇進した日の誇らしい気持ちと、祝ってくれた仲間たちの顔だった。彼はその記憶を差し出し、店主はそれを受け取った。

家に戻り、田中はまた夢の中へと旅立った。今度は友人たちと共に笑い合い、楽しい時間を過ごす夢だった。目覚めた後、確かに心の空白は埋まったように感じた。しかし、それと同時に、昇進の日の喜びも薄れていった。

田中は、もう二度と夢を買わないと誓ったものの、日常のストレスや心の虚しさが再び彼をあの店へと引き寄せた。現実の記憶が薄れ、夢の中でしか心の平安を得られない自分に気づいてしまったのだ。

再び店を訪れた田中に、店主は無言で微笑みながら一際大きな瓶を差し出した。それは、まるで全てを包み込むような深い青色の煙が渦巻く瓶だった。田中はその瓶を手に取り、心の中で覚悟を決めた。今度こそ、何もかも忘れてしまいたいと。

「これが最後の夢だ。君が望む全てを手に入れることができる夢だが、その代わりに君自身を全て捧げることになる。」

田中は頷き、瓶を開けた。濃い青色の煙がゆっくりと彼の周りに広がり、意識が遠のいていくのを感じた。目を閉じると、彼は今までにないほど美しい夢の中にいた。そこには、かつての家族、友人、そして失われた全ての思い出が色鮮やかに蘇っていた。

しかし、その夢の中で田中は気づかなかった。彼が現実の世界から完全に切り離されてしまったことを。彼の体は店の一角に倒れ込んでいたが、意識は永遠に夢の中に囚われていた。

翌日、店主は静かに田中の体を片付け、新しい瓶を棚に並べた。中には青色の煙が漂い、そこには田中の姿がぼんやりと浮かんでいた。新しい「夢」の一部となった彼は、もう二度と目覚めることはなかった。

店の外では、何も知らない人々が忙しなく行き交っていた。誰も、田中が夢に溺れ、永遠に戻ってこられない場所へ行ってしまったことに気づく者はいなかった。田中が望んだ通り、彼は全てを忘れて、ただ夢の中で彷徨い続けるだけとなったのだった。


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