見られることを楽しむということ

視線と言う名の暴力

派手なお洋服を着ていると、よく視線を感じます。ちらちらと見てはいけない物を見るような視線や、頭のてっぺんからつま先までじーっという視線、驚いたようにこちらを見たまま停止する人もいます。私はその視線がとても苦手でした。視線は恐怖となり、派手で目立つお洋服を着ることを躊躇った時期がありました。
好きなお洋服を着たいだけ、それは簡単なようで、実はとても難しかった。周りの視線が痛くて怖くて、好きなのに自信が持てず、お洋服に対しても申し訳なくなり、そんな自分が情けなかった。視線は、直接的な攻撃ではない、ないけれど、「周りと違う、おかしい、変だ」と言われているような、そんな感覚になります。視線は、暴力。そんな風に思っていました。

全ての視線に悪意があるわけではない

今では視線は怖くありません。でも、よく同じ悩みを持つ方から相談のDMを頂きます。
私が視線を乗り越えるきっかけとなったのは、“マイナスではない視線もある”ということに気付いたからでした。

ロリータを着始めた頃、周りの理解を得ることが出来ませんでした。男の子の集団に囲まれるようにじろじろ見られ、一切遠慮のない視線や、おかしな物を見下すようなニヤニヤとした顔は当時トラウマになりました。街では修学旅行生に追いかけ回されたりと、散々でした。特に大人からの理解は得ることが出来ず、家を出る時は目立たない服を着て、鞄にロリータのお洋服を詰め込み、駅のトイレで着替えたりしました。

ある日、電車に乗ると、目の前に座っていたおばあちゃんが私を驚いたようにじーっと見るのです。「何か言われるんだろうか、嫌だな、怖いな」そう思っていた私に掛けられた言葉は、あまりにも予想外なものでした。
「あなた可愛いわね!お人形さんみたい!」
今度はこちらが驚く番でした。初めて大人に認めてもらえた瞬間でした。優しい笑顔と、暖かい目でした。

ヴィヴィアンを着るようになってからも、視線は変わりません。ひそひそと話していたであろう子達と、ふと目があった瞬間に、うわ、こっち見た、なんて言われたり、なにかのコスプレか?その変な靴はなんだ、と絡まれたこともあります。
前からきた同い年くらいのカップル。女の子の方が私を上から下までしっかり見ていきました。でも、すれ違いざまに彼女が彼氏に言った言葉は、いつしか聞いたおばあちゃんの言葉と同じ、「めちゃくちゃ可愛い!」でした。

そこで、自分の行動を振り返ってみたのです。電車でとってもタイプな可愛い子を見かけた時、ステキなお洋服を着ている人を見かけた時。私はどんな行動をしていただろうと。
私、その人のこと、見てました。可愛い子はそっと伺うように、お洒落な人はじっくりと、無意識に見ていました。そして気づきました。全ての視線がマイナスではないのだということを。

もちろん、マイナスな視線、暴力と大差ない視線は感じます。でも、そうではない視線も実はたくさんあるのだと思います。だから、そんな視線気にして生きるなんて、もったいない。周りのウケとか、そんなの気にするより、好きな服着て生きてやろうって、思っています。その生き方に賛同してくれる人もいっぱいいます。だって、周りと違うことは、悪いことではない、好きなお洋服を好きなように着ているだけ。もちろん、TPOは守るべきだと思います。でも、街に遊びに行くのに、好きなお洋服を着ることに罪悪感も、劣等感も感じる必要は絶対、ない。他人が、評価するものでもありません。私の世界、私の好きなお洋服、それで生きて行くことの何が悪いのでしょう。視線なんて、気にせず、堂々としていればいいのです。だって、ヴィヴィアンもこう言っています、「私の服は見られることを楽しむための服よ」と。
視線を楽しめるようになれば、もうこっちのものです。じっーと見てくる人と目を合わせてニコッと笑ってしまいましょう。周りと同じ正義、なんてクソくらえです。

#ミスiD2019 #ミスiD

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