見出し画像

煮込み家族【レンズ豆のシチュー】(レシピエッセイ)

「カシャ-ン」

珍しく家族の揃った穏やかな土曜の朝、耳障りな鍋の金属音がキッチンの中に響き渡る。鍋の中を除きに来た息子が、お目当ての料理ではないと知って、口を蛸のように突き出した。

レンズ豆を野菜、肉、水と一緒に火にかける。別の小さなフライパンに黄金色のオリーブオイルを注ぎ、包丁でゴンと押し潰したニンニクを皮つきのまま加える。香ばしい匂いがキッチンに漂いはじめ、深紅色のパプリカを合わせ入れて手早く大鍋に移すと、シュンという大げさな音を立ててオレンジ色の花火が鍋一面に広がった。

本日のメニューはレンズ豆のシチュー。時間をかけてじんわりと煮込んでいく。

地中海に面するこの国では、少なくとも一週間に一食は豆料理を食べる習慣がある。特にレンズ豆は比較的火の通りが早いこともあって、夫の実家でも毎週のように登場し、しまいにはレンズ豆を食べないと一週間が終わった気がしなくなるらしい。子孫繁栄の意を持つレンズ豆。家庭料理の代表的な食材として昔からずっと親しまれてきたのだ。

時刻は午後2時前。もうすぐ昼食。

いったん火から外して落ち着かせたレンズ豆に再び火を入れる。あとは味を整えるだけ。そのはずだった。


「そんなに家が嫌なら、勝手にしろ!」

次男と話をしていた夫の声が、静かな空間を突き破った。

「わかったよ!一名脱落。満足だろ!」

続いて同じトーンでそう答えた次男。さらに、外の門を乱暴に開けて家から飛び出して行ってしまった。



あまりにも突然で絶句する長男と私。事の流れを聞き、二人して頭を抱えた。売り言葉に買い言葉が生んだ口喧嘩でしかない。

夫と20歳になる次男の性格は瓜二つ。揃って頑固者で言い出したら聞く耳を持たない。そのくせ猛烈突進の言動の後、ようやく冷静に状況を把握して後悔し、落胆し、傷心する。

誰よりも父親の承認を渇望する息子と、誰よりも息子に対し厳格で、気持ちを伝えるのが下手な父親。今まで幾度となく衝突はしていても、本当はお互いを心底大切に思っていることを認めようとしない不器用な二人。

起きてしまった現実に、夫に話していなかった事があったことを咄嗟に悔やんだ。


次男の思春期は平穏ではなかった。いじめや嫌がらせ、友人関係の歪み、思うように伸びない成績に対する不安といった因子が次男の自己肯定感を蝕み、自虐へと導いていった時期があった。クローゼットに閉じこもったのは中学2年の時だった。

もう大丈夫だと思っていた。いや、そう思いたかっただけだった。実際はずっと、大丈夫なんかじゃなかった……。大学生になり、随分と落ち着いたと思っていた息子の口は、再び「死」という言葉を吐いた。

「僕はただ、側にいて話を聞いてほしかったんだ」

自分の無力さが悔しくて情けなく、申し訳なくて泣いた。側にいるだけじゃ駄目だった。心の声を聞いてあげるべきだった。今まで一体何をしていたんだ……。

自省の気持ちに押し潰されながら決意した。三度目はない。息子の心には何があっても私が寄り添う。

そんな矢先の出来事だった。


息子が家を飛び出した。

大切に作り上げてきた小さな城が呆気けなく消えていくようで、恐怖と不安で手足が冷たくなっていく。このまま息子に会えないかもしれない思うと息が出来なくなる。泣いても仕方ないと分かっているのに涙は私を無視して流れ落ちていった。

「そうやって、おまえがいつまでも過保護だから、あの歳になっても親にああいう口のきき方をするんだ」

全て間違いだとは言わない。人一倍繊細で泣き虫だった次男のことを兄や姉以上に気にかけていた頃もあった。けれど、今はとにかく息子を連れ戻したい。

夫の言葉がさらに突き刺さる。

「探しに行けばいい。ずっと一緒に住んで面倒をみてやればいい。ただ、行くなら、ここにはもう戻ってくるな」

出て行くつもりだった。

今、心を閉じてしまったら息子は消えてしまう。そう思うと私の方が消えてしまいそうだった。それなのに、間違ってはいないのか、残った家族はどうなるのかと自問する。答えの出せない私をもう一人の私が嘲笑った。

嗚咽でひっくり返る声で、息子が再び「死」を考えていたことを夫に伝えた。

涙が止まらない。頭の中を握り潰されるような激痛が、皮肉にも、心の痛みを一時的に和らげるのにちょうど良い。


4時間を過ぎた頃だった。一本の小さな光が差し込んだ。この日の夕方、息子がヘアーカットの予約をしていたのを思い出したのだ。自分でキャンセルする可能性だってある。でも、チャンスは今しかない。

夫が何を言っても探しに行くつもりで上着を掴み、車の鍵を取ろうとする私を止めたのは長男だった。

「今、戻る場所がなくなったら、戻るに戻れなくなる。俺が行くから」

落ち着いた声でそう言う彼の目も明らかに腫れている。私が行くべきだ。私が寄り添うと決めたのだ。すると、その気持ちを掬うように彼が言う。

「僕の弟だ。僕も家族だよ」

彼の言葉で何かが溶けていった。そうだ。家族なんだ。一人で解決させようとしちゃいけない。連れ戻せない可能性はいくらでもある。長男にとって一生の重荷になるかもしれない……。それでも一緒に前に進もう。何があっても。

彼に托した。

「お願い。連れて帰ってきて」

彼は強く頷いた。




暫くして、少し落ち着いた様子の夫が話し始める。

「さっきの話を聞くまで、このまま家を出ても構わないって思ってたよ。(次男は)頭がいい子だ。危なっかしいところもあるが、きっと一人でしっかりやっていく。親がいつまでも手を出しちゃいけない。わかるだろ?」

「あのね、昼寝をしているあなたの胸の上で、生まれたばかりのあの子が眠っている写真があったでしょ。あの写真、あの子ずっと大切に持ってるのよ。あの子を愛してるって、ちゃんと伝えてる?」

お互いの問いに返事をすることなかった。目線をテレビに移した夫の瞳に、テレビの画像は映っていなかった。

愛情の形は一つじゃない。突き放す愛が必要で、過剰な愛が毒になることもある。同じ光に向かって平行に飛ぶべき矢の先が僅かに傾いただけで衝突し傷つけ合い、時には全く想像しなかっ方向に飛んで行ってしまうのだ。


夜8時をまわった頃、家の前で車の音がした。次男も一緒だった。真っ先に飛び出して行ったのは私ではなく夫だった。次男と夫を外に残し、長男が先に家の中に入って来た。

「連れて帰ったよ……」

すっかり体格も大きくなった長男が私の肩に覆い被さる。張り付いた不安と湧き出る感謝の気持ちが、まだ残っていたのかと驚くほどの涙と一緒に溢れ落ちていった。長男は私に見つからないように頭の上ですんと小さく鼻をすすった。

続いて、次男と夫が入ってきた。二人とも俯いている。息子はそのまま足を止めることなく私の傍にやって来た。肩を落とす彼を強く抱きしめた。

「ごめん……ごめんな……」
「ん……おかえり…………」

同じ血が流れる体温を感じる。腕の中に息子がいる。

そして、次の瞬間、涙と鼻水でボロボロになりながら目にした光景に驚いた。

夫が一人で泣いていた。顔をくちゃくちゃにして声を殺しながら泣いていた。

夫だって、辛かったんだ。追出したくて追出した訳じゃない。それなのに、私は次男のことだけ考えていた。長男や夫の気持ちまで思ってあげられなかった。長男が教えてくれたように家族であるべきだったのに。駄目だな。また失敗……。

無言で夫の首にしがみついた。



待ちかねたようにお腹がキュルルと鳴る。誰もお昼ごはんを食べていなかった。

「ねぇ、食べようよ」

すっかり冷めていたレンズ豆に再び火を入れると、とろりと絶妙の煮込み加減となった。

子は遅かれ早かれ親元を離れる。やむを得ない状況がそうさせる場合もあれば、家族間での歯車がうまく噛み合わなくなってくることも多い。けれど、形はどうあれそれは、子どもが成長し自立していくために、誰しもが通過すべきステップなのだ。

子が個人として意思を持ち、親の用意したレールではなく自分の歩くレールを作りはじめる。残念ながら、親離れと子離れのタイミングは必ずしも一致しない。それでも、「いつまでも子ども」は「いつの間にか大人」になる。

恋愛方程式がないように、家族円満方程式もない。自分たちの今が正解かどうかなんて分からない迷路の中で、寄り添ったり離れたり、傷つけたり受け入れたりしながら進んでいくしかない。

家族というのはレンズ豆のシチューのようだ。いろんな食材と一緒に鍋に入ったレンズ豆を手間暇をかけて何度も味見し丁寧に煮詰めていくことで、ぽってりとした舌触りの優しい味わいになる。

先の事は誰にもわからないけれど、レンズ豆のシチューが焦げてしまわないように、私は何度だって火を止めて煮詰め直す。いつの日か我が家の味になるように。


暮らしの中に食がある。
食の中に喜怒哀楽がある。

食を通して命を綴る。
地中海の食をスペインの風に乗せてあなたの元へ


今日の一品 :レンズ豆のシチュー

画像1

材料
レンズ豆(乾燥 )  / ニンニク / 豚スペアリブ / チョリソ
たまねぎ / ニンジン / トマト / イタリアンピーマン 

調味料
オリーブオイル / ローレルの葉 / パプリカ / 塩 

画像2

(チョリソがなければパプリカ、スペアリブを多目に。豚耳、豚足も可)


作り方 

水洗いし汚れや付着物を取り除いたレンズ豆を鍋に入れ、レンズ豆の5倍の水、肉、野菜(丸ごとでOK)、塩を入れて火にかける。

小さなフライパンにオリーブオイルを注ぎ、軽く叩いたニンニクをローレルの葉と共に火にかけ、香りが立ったらすぐにパプリカを加える。さっと全体を合わせ、素早く鍋に移し入れる。

一度煮立てたあと火を弱め45-50分加熱し火を止める。味を馴染ませてから再び弱火にかけて塩味を整える。

画像5


エッセイの中のレシピを一緒に再現しましょう。
圧力鍋を使って短時間で出来る簡単調理の方法もお教えします。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?