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ピンチョスに刺され、タパスに蓋される

パステルな味

 サン・セバスティアンの海辺に立つ。目の前に広がるビスケー湾の色。明らかに地中海の色とも、日本の海の色とも異なる深い藍がそこに広がっている。いつものように、コンチャ海岸の周囲には、ランニングを楽しむ人や、海岸の波打ち際を素足で歩く家族連れ、最高の波を探してサーフィンを楽しむ若者の姿がある。

 スペインの長い昼食タイムには、観光地といえども、公館や一般店だけでなく美術館なども閉まってしまい、夕方5時頃まで何もできないということがある。時間は、誰も対しても平等に与えられてはいる。そこで、ポッカリと空いた時間を自分のために造り出す。スペインでの暮らしは、そんな当たり前なことも教えてくれるのだ。

 私はというと、心地よい潮風を受けて散歩道を歩いた後、軽くシエスタ。夜になるのを待って、お待ちかねのバール街へ。さすが「街」と言われるだけあって、前後左右にバールが数珠つなぎに立ち並び、車一台通るのが精一杯なくらいの細道が何本も交差している。

 この「街」が、凄いといったらない。豊富な食材を用いた料理、強烈な色彩、匂い、人々の声といったものが、地面から湧いてくるような一帯のエネルギーと一体となって、どんな言葉を並べても表現しつくせない食天国が目の前に展開される。

 ガラスケースに溢れんばかりに入った新鮮な魚介類。エビやカニなどの甲殻類の鮮やかな紅が目の中に飛び込んでくる。生きている。そうでないと、あんなに真っ黒な目でこちらを睨んではこない。
 全て歩いていける距離にある各バールのカウンターには、ドンと当たったら崩れ落ちそうな大量の料理が巧妙に並べられている。人と人が触れ合って、ふとした拍子にできる小さな隙間を縫ってカウンターまで巧に辿り着く。いろんな意味で尋常ではない。

 

 スペインの公用語であるカステジャ―ノ語では"セントジョ"、日本名は"クモ蟹"と呼ばれる手足の長い赤い蟹は、ここでは"チャングロ"と呼ばれている。
 チャングロは身を丁寧に外した殻を器に使ってグラタン風に調理されていることが多く、特にバスク風と呼ばれるものは、一旦掻き出した身をコニャックやシェリー酒入りのトマトソースで和えてから、再び殻に詰め直してオーブンで焼くという手の込みよう。
 ウニだって、そのままパックリ開いているものも、新鮮ならそのまんまで充分美味しいのに、トロリと濃厚なクリーム状に仕立てられている。
 エビ料理一つにしても、シンプルな塩茹でから鉄板焼き、カクテル、揚げ物とスープ仕立てとバリエーションが果てしない。
 何かにつけて、もう一手間を惜しまない。「やられた!」それがバスク料理。

 

 今や、数にして100軒を超す数になるとも言われるバールには、店ごとに名物ピンチョスやタパスがある。バル巡りを楽しむ客たちは、それらを中心に数種類注文し、あっさり次のバールへというのが暗黙のルール。
 とはいえ、数件目になるとピンチョスの下の部分のパンでお腹がいっぱいになってしまうから、最初の数件は狙いを定めておく必要がある。


 店の奥で、既に常連らしき人々がワイワイと賑わっている。人気の店では、座る場所を選んでいる余裕なんてない。座りたいなら、たとえ人数分の席がなくても、とりあえず、数人分の場所だけでもキープしてから考える。

 「座れなくたっていいんだよ。次の店に行けばいいんだからさ」

 そんな潔さが気持ち良い。

 客の回転が速いので、目当ての店では、少し待ってみる。入っていく客と出ていく客の流れの中、まだ、きれいに片付いていないテーブルを陣取ることに成功した。
 少ししてやってきたカマレロに、店の勧め料理は何かと尋ねると、今日は《パステル》があるという。パステルカラーなんていう色調もあるくらいだから、ほんわりと柔らかい甘いお菓子なのかと思ったら、どうやら、魚のすり身のテリーヌらしい。 

 本日の《パステル》は「かさご」の一種、カブラチョのテリーヌ。ヒルダと呼ばれるアンチョビ、オリーブ、ギンディ−ジャ(バスク唐辛子)を楊枝に刺したシンプルな《ピンチョス》で舌を遊ばせながら待っていると、カブラチョの厳つい形相からは想像できない優しいサーモンピンクのパステルが登場した。

 落っこちないようにそっと口に運ぶ。ほんのり甘い生クリームのコクとバターの香るパステルが、喉元をスルリと静かに滑っていった。

 淡くて柔らかく儚い中間的な味。ニュートラルだけれど、ちゃんと独立した味。パステルというのは、練り固めた意味するフランス語に由来し、そこから画材の呼び名になったらしいのだけれど、パステルな味と言っても変な気がしないのが不思議だと思った。

 

食べて生きる頑固者たち

 ここで、《ピンチョス》の話をしよう。

《料理につきささった楊枝の名から呼び名がついた《ピンチョス》。別の地方では輪切りにしたバゲットパンの上に料理が乗っかり《モンタディートス》と呼ばれるものが、《ピンチョス》に変身する。
 赤ピーマンの詰め物などのちょっとした一口料理、ゴロンとしたコロッケも、楊枝が刺さっていると全部ひっくるめて《ピンチョス》。

 これに対して《タパス》は、「蓋」を意味し、かつて、ワインや虫が入らないようにパンや生ハムなどで蓋をしながら食べていたのが始まりだという。
 小皿料理と呼ばれることもあるけれど、実際にはもう少し広い範囲で、腸詰やチーズ、燻製のような冷製料理、小さな土鍋に入った煮込み料理、少量のミートボールのような温製料理からオリーブの実、ピクルスといったものもに至るまで、小さな器に盛られた料理はタパスということになる。

 面白いのが支払い方法。バールで《ピンチョス》を食べると、ほとんどの場合、ピンチョスの代金はどれでも均一で、残った楊枝の数によって支払う代金が決まる。つまり、食べてから自己申請する回転すしのシステムというと分かり安い。

 とはいえ、《ピンチョス》の中には楊枝が付いていないものもあれば、別に注文して作ってもらうものもある。
 ということは、楊枝が床に落ちてなくなったりしたらどうなるんだという素朴な疑問も湧くのだが、そんな心配をよそに、バール巡りはどんどん加速していく。

 

 バールの中には、カウンターの足元に添えつけられたプラスチックの細長いゴミ箱に、ムール貝の殻がゴロゴロと捨てられていることがある。
 使ったナプキンも床にガンガン捨ててしまう。食べているすぐ傍にゴミ箱があるというのは不潔な感じがするけれど、捨てられた貝殻やナプキンの数の多さは、それだけ沢山の人が食べたということ。つまり、店の人気度を示すものでもあるのだ。
 さらに、その昔は、足元にゴミ箱などなく、カウンターの足元にそのままポイと投げ捨ててあったというのだから驚いてしまう。
 こういった情景も、衛生管理面での規制が入り、今ではほとんど見られなくなってしまっている。


 次から次へと現れるピンチョスにタパス。全品制覇の夢など果たせるはずがない料理の数々。テンションが上がりっぱなしで、下がることを忘れてしまったバール巡りの醍醐味がここにある。

しかし、思ったのだ。

 こうして世界各国から食天国バスクを目指して観光客が訪れ、その波は衰えるどころか絶えることがない。当然、遠路はるばる視察にくる飲食関係者も絶えない。タパスやピンチョスを模倣し、各国の新しい流行として取り入れるためである。
 何故、こうまでにこの地の料理が人々を魅了するのだろうか。ただ、物珍しいからだけなのだろうか。

 

 バスク地方には、19世紀から続く「食」を愛する男たち美食倶楽部が存在する。誰でもが参加できるものではなく、本来は女人禁制。仲間同士で結成されることが多いので、欠員があっても既会員全員の承認がないと入会は許されない。 
 厨房のあるサロンでは、気の置けない同志たちが共に調理し語り合う。
 ここでは、単に作った料理を味わうのではない。それぞれの生き方や考え方から生まれる時間を味わう。そんな空間が存在する。


 一見、堅物そうにもみえるバスクの男たちの中にある「食」に対する熱い心意気。
 この地の食が魅力に溢れ、創造性に尽きることがないのは、彼ら自身の細胞から誕生する「食」が生きている証拠なのだろうと思っている。

 今日ある自分が決して明日の自分ではないように、「食」も常に変化し続けているし、変化し続けなければならない。しかし、同時に何があっても大切に守っていかなければならないものがある。

 そうした歴史や伝統、個性といったものをリスペクトしながら、新しい食を築いていく。
 
 ゴールは存在しない、一瞬、一瞬が過程でしかない。その過程を丁寧に楽しむ。

 

 食べて生きる。

 バスクの人たちこそ、食べて生きる人たちなのかもしれない。

「あなたは今、食べて生きていますか?」


≪次の目的地 ⇒ ビルバオ≫


スペインでは、家族や友人たちで集まって料理を作り、一緒に食べることがよくあります。

私が住むバレンシアでは、毎週日曜日は父親がパエリアを作り、家族がみんな集まって一緒に食事をするのが伝統になっています。作業中もワイワイと話をし、時にはビールやワインを飲みながら楽しみます。

皆さんは、そんな経験はありませんか?

そこで、次回のSpacesのお題は『大勢で料理を一緒に作って食べた思い出や体験について教えてください』です。

お題の回答はいつものようにコメント欄、もしくはTwitterで、 #食べて生きる人たち のハッシュタグをつけて投稿してくださいね。

お待ちしております!!




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