小説【アコースティック・ブルー】Track5: Knockin' On Heaven'S Door #2

 未明に降り始めた雪の影響で交通機関が混乱状態に陥り、多くの生徒が遅刻しているため教室の中は閑散としていた。
 教壇のすぐそばに設置されている、チョークで汚れた手を洗うための小さな手洗い場は校内でもお湯が出る数少ないスポットで、少年は冷えた両手を温めるために、湯気の立つ温かい流れに指先を濡らしていた。
 ふと誰かの気配を感じて顔を上げると、手洗い場に取り付けられた鏡の中に映る自分から少し離れた背後に、なんだか楽しそうに微笑む少女が立っていた。
 クスクス笑いながら鏡の中の少年の頭を細い指先でツンツンと小突いている。
「何が面白いんだよ」と呆れながらも、嬉しそうに少年が鏡に映る少女に声をかける。

「真面目だねぇ君は。みんな遅刻してるのに」
「そっちこそ。俺より早く来てるじゃん」
「私は近いからね」

 なんてことの無い他愛のないやり取りが多感な年頃の二人にとっては、この上なく楽しい時間のように感じられた。
 お湯の流れを止めて、ポケットから取り出したハンカチで手を拭いているうちに、少女はすぐそばまで移動して来ていて、教壇の上から「お願いがあるんだけど」と少年を覗き込む。

「うおー やっべぇ!寒っ!」

 教室のドアが勢いよく開いて、雪に髪を濡らしたクラスメイトが飛び込んできた。
 開け放たれたドアから冷気が入り込み、教室に居合わせた数名の生徒たちから苦情の声が上がる。文句を言われて気まずそうにドアを閉めに戻る男子生徒の項垂れた姿を見て少女がクスクスと笑った。

「お願いってなに?」

 怪訝な面持ちで少女に尋ねる少年に対して少女が無言で不敵な笑みを浮かべる。からかうような少女の仕草に嫌な予感を覚えつつ、少女が視線を教室の後ろへと移動させるのにつられて少年も同じ方を向くと、生徒たちがコートや傘をかけるためのフックが連なる壁に、教室という場には不釣り合いなものが立て掛けてあった。薄汚れた古いアコースティックギターだった。

「スゲー!Martinじゃん!」
「なに、有名なの?」
「有名なんてもんじゃないよ! アコギの原型を作ったトップブランドだよ!」
「ふーん」

 興奮気味にギターに駆け寄った少年に対して少女はややドライに応じながらも、子供のようにはしゃぐそんな彼の様子を嬉しそうに見守った。
 食い入るようにギターを見つめて屈みこむ少年の様子に反応してクラスメイト達が様子を窺うように二人の周りに集まってくる。

「どうしたのこれ?」
「おじいちゃんが昔買ったものなんだけど
 自分ではあまり弾けないからずっと物置に仕舞ってたんだって」
「確かに……状態が悪いね」

 古びて埃まみれになったアコースティックギターは金属のパーツが錆び付き、ボディーの木材の一部にカビが生えてしまっている。接着面の弱まったピックガードは今にも剥がれ落ちそうで、保存状態の悪さからすっかり劣化してしまったギターを前に少年が困惑気味に頭を掻いた。

「物置を整理してるときにギターケースが壊れちゃったらしくて、そのまま放置してたらこんなになっちゃって……」
「もったいない……」

 ギターの後ろにそのケースが立てかけてあり、ケースの方はギター以上にひどい状態だった。ケースの蓋を支える留め金が錆びてボロボロになっているため、蓋がきちんと閉まらないうえ、何か重いものを落としたのか蓋には中が見えるくらい大きな亀裂が入っていた。

「持ってくるのちょっと恥ずかしかった」

 少女もギターの前に屈み込むと、少年にだけ聞こえるような小声でペロッと舌を見せた。そしてそのまま「なおるかな?」と至近距離で少年の顔を覗き込む。
 少年は思わず恥ずかしさに視線を外したが、少女のあどけない眼差しにどぎまぎしながらも「なんとかしてみるよ」と照れ臭そうに笑った。



 ステージ上に展示されているMor:c;waraメンバーの楽器の陰にひっそりと飾られている古いギターを見つめながら、まだ学生だった頃のそんな淡い思い出を振り返るユウコ。壁に飾られた沢山の写真の中にはその頃の面影を残す彼の笑顔が溢れていて、もう二度と会えないという事実が悪い冗談のようにすら感じられるほど明るい表情をしていた。

 彼に託した祖父のギターと同じモデルのアコースティックギターを前に、ユウコはセイイチがタスクから預かったという古いデジタルプレイヤーを握りしてめていた。
 収録の中に残された少年少女の幼さの残る笑い声が当時の情景を鮮明に思い起こさせる。
 温かくて優しかった思い出が、今ではユウコを切なくて寂しい気持ちにさせる。
 まさかあの時の録音がいまだに残っていたなんてという驚きを感じながらも、この店との出会いから始まった小さな偶然に、ユウコは運命的な巡り合わせを感じていた。
 セイイチがこの録音を手に入れた経緯は解らないが、少なくともセイイチもユウコと同様に二年前のタスクの死をまだ忘れていないらしい。



「君は一体誰なんだ?」

 セイイチのその問いかけにユウコはどう答えるべきか逡巡しながら、何故か期待を寄せるようなセイイチの表情に戸惑っていた。
 タスクの古い友人だったと正直に話して信じてもらえるだろうかという思いと、セイイチにすべて打ち明ければこの二年間の空白を穴埋めできるかもしれないという期待がユウコの中に混在している。しかし二年前、彼の葬儀に参列させてもらえなかったことを思い出すと、本当のことを話せばかえって面倒な立場に追いやられてしまうかもしれないという不安が脳裏を過った。
 ユウコはまだタスクの死の真相に辿り着けていない。しかし真実を聞くのが怖いという相反する思いがユウコの口を重くしていた。

「おい、本当のことを教えてくれ!
 どうしてこの曲を知ってるんだ!?
 この曲を歌っているのは誰なんだ!?」

 期待とも不安ともとれるセイイチの表情にはどこか焦りのような感情が滲んでいて、セイイチの言葉の意味をどう受け止めればいいのか解らずユウコは悩んだ。しかしもうこれ以上隠し続けることは難しいと判断して正直に話す決意を固める。

「あの、私……」と言いかけるとその瞬間にセイイチの携帯電話から着信を知らせる電子音が鳴りだした。
 セイイチは「くそっ!こんな時に」と悪態を吐いて携帯電話を取り出し、スマートフォンの画面に表示された相手の名前を見て不意に拒否反応を示すように眉間に皺を寄せた。セイイチが怪訝そうな面持ちのままで通話ボタンを押す。

「なんだイチロウ? 今忙しい――」

 セイイチが口にした名前を聞いてユウコは元Mor:c;waraメンバーのICHIROUを連想した。セイイチと共にEclipsRecordsを立ち上げ、Mor:c;wara解散後はCEOに就任したということまではユウコも知っている。
 メンバー同士の仲が良くなかったという噂もあり、特にSEIICHIとICHIROUの確執がクローズアップされているのをよく目にしたが、二年経った今、二人の関係性がどうなっているのかまでは計り知れない。
 着信画面を覗き込んだセイイチの表情を見るにあまり改善されていないような印象を受けるものの、何か良くないことが起こったのかもしれないという予感だけは不思議と感じた。ユウコの予感を裏付けるように電話に応対するセイイチの横顔がみるみる強張っていく。
 はじめは困惑と驚愕に目を見開いていたのが、徐々に憤りと失望が入り混じり、近づくことさえ躊躇ってしまうような険しい表情で無言のまま相手の話を聞いている。まるで電源が落ちた機械のように微動だにせず、とても何か切り出せるような雰囲気ではなくなってしまっていた。

「悪い。用事が出来た」

 通話を終えてしばらく放心状態で床を見つめていたセイイチが不意に憔悴した低い声を出す。誰が発した言葉なのか解らないくらいの変貌した声色にユウコは畏れすら感じた。

「またあとで来る」

 ユウコには目もくれずにそのまま店を飛び出していくセイイチ。何が起こったのか解らず店の中に取り残されたユウコは、ただひたすら嫌な予感に胸が早鐘を打つのを自覚し、唐突にタスクが亡くなった日のことを思い出した。
 眩暈を覚えて胸が苦しくなり、体を支えるためにカウンターに手をつくと、セイイチの置き忘れていったデジタルプレイヤーがそこにあった。


<< Track5: Knockin' On Heaven'S Door #1

>> Track6: Paint it,Black #1

デザインを中心にイラストや漫画、アニメや音楽などクリエイティブに幅広く取り組んでいます。お力添えできることがあれば何なりとお声かけください。よろしくお願いします。 ポートフォリオ:https://visualworks-g.net/