見出し画像

”場づくり”についてわかちあってみる場をひらいてみようと思う(場づくり講座)

ここ数ヶ月の自分の中での変化

2021年の春ごろから思いはじめていたこと。それがこのnoteのタイトルだ。
    
”場づくり”を意識的にやりはじめてもう10年近くが経つけれど、これまでやってきたことや考えてきたことを、誰かに教えたり、伝えたりという感じでわかちあう”場”をつくろというのは、あまり思ってこなかった。

画像3

いや、今までも思わなかったわけではない。やってみようかなとも思うのだが、でも次第に「まあいずれね」という感じになっていた。

それが、ここ数ヶ月の間で、なぜか「やってみようかな→やりたいかも→やりたい!→やろう!」という感じで自分の中で盛り上がっていったのだ。
  
いくつかの理由があるが、「これが決定的」というのがあるわけではなく、その「いくつか」が折り重なるようにして、まるでSignの様に感じられたのだと思う。


”場づくり”って何だろう?

そういえば、先日とあるワークショップの場で、”場づくり”をしているみたいなことを話した時に「場づくりってなんですか?」と聴かれたことがあった。
 
たぶんその方は、本当にピンと来なくてシンプルに「それって何?」って質問してくれたんだと思う。
  
でも、その何気ない一言を、受け取る側が妙に広げて深めてしまうことがある。この時もそうだ。私の中の内省スイッチが入る。

いったい”場づくり”って何だろう?

”場づくり”とは何かを語るにあたって、まず”場”とは何かをあらためて考えてみたいと思う。

ちなみに、コトバンクを開くといろんな解説が出てくる。

何気なく使っていることばの由来とか定義とかを、こうしてあらためて紐解いてみると思わぬ発見とかがあって面白いなっていつも思う。

私はといえば「”ひらく人”と”おとずれる人”がいて、両者が相互作用しながら何かが生まれる時間と空間」のことを”場”と呼ぶのだと思っている。
  
そこには何かを伝えたい、わかちあいたい、という意図を持って場をしつらえる「ひらく人」がいる。そして招かれたり、または自らが意図をもって訪れたいという「おとずれる人」がいる。
  
両者が交わると、そこに何かが生まれる。意図した望ましいことが生まれたり、意図せぬ思わぬことが生まれたり、そんな相互作用が起きてくる。

個人的にはこの「意図せぬ思わぬこと」というところに場の面白さや、ちょっとしたスリリングな感じ(怖さ?)があるように感じている。


なぜ”場づくり”をしているんだろう?

たとえば、自分がしていることを、「なぜそれをしているのですか?」と問われて、明確に答えられる人はどのくらいいるのだろう?

しかし、答えられなくとも振り返って紐解いてみると、なぜか心惹かれたり、こだわってしまったり、どうもその道に才能がありそうだと密かに思ったりするような何かがある人は多いと思う。(紐解いてみればきっとわかる)  
  
そして、それゆえにそのことに葛藤していたりもする(これも紐解いてみればきっとわかるww)
   
人にはきっと「人生のテーマ」のようなものがあって、人生の前半でそれと氣づかぬ体験をし、そしてやがてそれを何らかの形で自覚をし、後半でそれを探求したり展開していくという人生の流れがあるように感じる。
  
それは、ヒーローズジャーニーや、十牛図みたいなものの中にも見て取れるような人生観とも通じているような感じがする。

私自身の人生の前半の葛藤は、一言でいえば「自由なあり方を望みながら、それを選択できない自分」というような感覚だったように思う。

だからこそ今は、「もっと自由でいいんだ、もっと自分らしさ全開でいいんだ、そこに良いも悪いもない、なかったら自分で創ればいい、生き方も働き方も」って思っているし、自分と関わる出来るだけ多くの人がそうなることに繋がる何かを、自分の好きや得意を活かしてやろうって思っている。

それが人生のよろこびを増やしてくれるし、互いの違いを面白がりながら、自然と共創していくような関係性や営みが生まれてくるし、何よりそれって平和だよなって感じがする。

一人でも多くの人が、自分の人生の中でよろこびをたくさん味わえて、だからこそ人にも寛容になれて、それをわかちあうことでまた誰かの人生のよろこびが増えるような、そんな循環が生まれるようなきかっけづくりになる“遊び“を、いろいろ紐解いて考えて試してみたい。

これがわたしが”場づくり”をしている源だ。少なくとも今は。

場をつくることで、自由なあり方で生きられることにつながる紐解きや、よろこびの増幅や、その循環を生むような”遊び”をいろいろやってみたいのだ。
(ちなみに、”遊び”という言葉も紐解いてみると面白い)



いい感じの場をつくる人が増えるということ

場づくり講座なるものを開くことで願うのは、いい感じの場をつくる人が増えてほしいということだ。

いい感じの場とは、イメージするとこんな感じだと思っている。

①ひらく人が楽しんでいる
②おとずれる人がその場に参加しようという意欲がわいてくる
③ひらく人もおとずれる人もその場では素に近い感じでいられる
④その場によって結果的にいろいろな望ましい変化が生まれている

わたし自身も”場づくり”をすることによって、よろこびをたくさん感じることが出来ている実感がある。

特にオープンでひらく場は、わたしの好みが全開なのでww、もう楽しくてしょうがないという思いでやっている。

そんな感覚で開いたその場に来てくれている人が楽しんだり、そこに意欲的に参加してくれている様子を見ると、そのよろこびはさらに増幅される。

飾ったり、背伸びしたり、構えたり、隠したり、そんな氣もちがあることにも氣づきながら、次第にそれがほぐれていく。

ほぐれた状態だからこそ、たとえば本当の思いに氣づけたり、誤解が解けたり、違う見え方を感じたり、必要以上に怖がらなくなったりして、そこで今までとは違う一歩を踏み出そうという感覚になる。

結果として、その場にいる人たちに望ましい変化が生まれ、その人たちがまたいろいろな場で望ましい変化を起こしていく。

いい感じの場をつくる人が増えるというのは、つまりそういうことが増えていくということなんだ。


さて、どんな講座にしてみようか?

これからやってみようという講座は、講座という形を借りた「自分語り」なのかもしれない。

学術的、専門的、体系的に「場づくり」を学ぶのであれば、他に選択肢はたくさんあるのだと思う。でもここでは、多分に「わたし」の好みが反映されていくのだと思う。

画像1

もちろん、私自身も様々な学びに触れ、それなりに体験は重ねてきているので、伝えることのクオリティや学んだ後の実効性にこだわっていく氣は満々にある。

講座に参加してくれた人たちが、自分でひらく場のみならず、例えばオーダーされて場をつくる時も、さらには普段のミーティングの場や、いろいろな集まりの中で、そこを”いい感じ”にしていくための観点と方法が手に入る時間にしたいと思っている。

とはいえ、それもまたやはり「わたし」というフィルターを通すという意味では、ある種の偏りは出るのだと思う。
 
そして、それでいいんだとも思っている。なぜならここに参加する人たちがそれぞれの好みやらしさが反映された場をつくり、それによっていい感じの場をつくっていってもらえるようになることを目的にしたいからだ。

そのためには、この講座もまたわたし自身がそれを体現していることを大事にしたい。参加してくれる人たちがこの場で感じる「共感」や「違和感」は、それぞれが自分自身の価値観や感性に氣づくきっかけでもあるし、そこから学びがはじまることでもある。

そういう意味では、わたしにとっても学びの場かもしれない。教える人と教わる人ではなく、わかちあいながら共に学びあうような、そんな講座になったら最高だって思う。


講座をしていくその先に見てみたい景色(Vision)

「あ~今日も楽しかった、明日は何をしようかな」世界中の子供たちが夜眠る前にこう言って眠りにつく。

これは、わたしの尊敬する友人のロミさん(中野裕弓さん)が、かつて世界銀行にいた頃につくった平和の定義だと教えてくれたことばだ。

ちなみにロミさんは、「もし世界が100人の村だったら」を広めた人でもある。

わたしは、この言葉を聴いた時に、「あ~この感じほんとに好きだ!」って思った。そして子どもだけじゃなく、大人も、世界中のすべての人がこんな風になったら、本当に最高だなってすごく思う。

今世界はとてもじゃないけど、そんな風に思える場所に、なってはいない。自分ひとりが出来ることなんてちっぽけだとも思っている。
 
でも、それでも自分はやるんだと思えることがある人生って、いい人生だなって感じがしている。

まずは、半径5mの世界をこんな風に出来たとしたら、自分の半径5mを「いい感じの場」に出来る人がどんどん増えていったら、この平和の定義は必然的にやがて訪れる世界なんだって思う。

*********************************

こうして書いているだけでもいろいろわかちあいたいことが溢れてくるのだけれど、肩ひじ張らずに、たのしくおもしろく、一緒に遊びたいと思ってとまってくれる人が来てくれることを想像しながら、「この指と~まれ」と指を出してはじめてみようと思う。(誰もとまってくれなかったらさみしいから、誰かとまって~ww)

画像2



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?