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誹謗中傷による被害者を減らすことのできる力

昨今、社会の中では誹謗中傷についての関心が高まっています。リアリティードラマでの出演者の自殺であったり、ネットや動画での発言に対しての執拗な罵声であったり、形はいろいろですがインターネットを多くの人が使う現代では、どの世界でも誹謗中傷は存在します。しかし、日本においては誹謗中傷による精神的ダメージを受ける人や、命を絶つ選択をする人が増える傾向にあります。

私自身も誹謗中傷の経験がありますが、こうした被害を受けた人たちと話をすると多くの人があるポイントについて話してくれます。「誹謗中傷を受けている最中、世の中の声がその非難だけになっていて自分の存在までもが否定されているのではないか」「もう応援してくれる人は居なくなってしまうのではないか」。ほとんどのケースでは、実際にそんなことはないのですが状況が切羽詰まってくると、精神的にこうした思考に追いやられていくことは確かです。

こうした思考に追いやられて、精神的、肉体的なダメージを受けないようにするために、被害者にとって必要なのは理解して応援してくれる人たちです。家族や恋人は応援者でしょう。しかし、社会的に露出されている人たち、書籍の著者や芸能人、インフルエンサーや政治家、ブログを書いている個人にとっては、情報を発信している相手=社会からのバッシングは死んでしまいたくなるほど辛いものです。

特に日本の場合「匿名性」の守られた環境(ツイッターやLINE)では、面と向かって発することのできない言葉を、平気で相手に浴びせてしまう「キーボードギャング」の存在が強くあります。最近では、訴訟などを通してこうした誹謗中傷行為を取り締まるという動きがありますが、誹謗中傷を止めるには訴訟以外に手段はないのでしょうか?

日本の外に目を向けてみると、確かに匿名性を持ったネット上の誹謗中傷でも裁判や開示請求を通して明らかにしたケースは多くあります。しかし、誹謗中傷が発生している最中に日本と大きく違う点があります。それは「応援者の声」。日本の文化的背景だとは思いますが、ある人が他人に対して執拗に誹謗中傷を浴びせている時、「私は、この人のしていることを応援しています」とはっきり、それも集団でなく個人として発言する勇気のあるひとは少ないでしょう。心理的には、「自分も誹謗中傷の被害を被りたくない」というものからくると思いますが、それは本当に倫理的に正しいことなのでしょうか?

学校に通って「いじめ」を目撃したとき、まさに日本では上で説明したようなことが起こることがほとんどです。助け舟を出さない、または、そーっと気づかれないところで「頑張ってね、私は応援しています」と言葉をかけたりする文化です。

しかし、その誹謗中傷の被害者を、我々、世の中の人たちが減らすことができるヒントがここにあります。先ほどの被害者の声でもわかる通り、被害者は応援されている声ではなく誹謗中傷の声を大きく聞きますし、周りが静観し始めることでより応援されなくなったという感覚に陥ります。そこで必要なのは、誹謗中傷をしている人やニュースになった時になって「それはひどい!」という声ではなく、「私はあなたを応援しています」という言動と行動なのです。誹謗中傷している加害者側を責める必要はありません。あくまでも、「応援している声」を誹謗中傷と同じ大きさの声で被害者へ届けるということです。

私も誹謗中傷を受けた時、個別のメールやメッセージで応援してくださる方のコメントをいただくことがありました。それはもちろん力と支えになるのですが、公の場で誹謗中傷している声との大きさは、被害者にとっては大きく違います。ですから、沈黙や静観というのは結果的に誹謗中傷に加担してしまうことにもなり兼ねないのです。

数年前、私の住んでいるアメリカでリサイクル品を格安で販売する小売NPOの会社(全米のネットワーク)のCEOが受け取っている億単位の年俸が誹謗中傷の対象になったことがありました。しかし、ネット上で騒がれたその誹謗中傷は1、2日で収束してしまいます。何故なら、「NPOだろうと会社だろうと、大きな責任を持っている人に対価として給料を支払うことに間違いはない。同額以上の報酬を受け取っている企業の役員を責めないのに、彼だけを槍玉にあげるのは間違っている」という声が同時に発生したからです。

このネット時代、「応援」ということを意識することで、誹謗中傷の数は減らすことはできないかもしれませんが、誹謗中傷による被害者を減らすことはできると思います。普段から応援する人や、企業、コラムや芸能活動について「私はこの内容が好きです」「私はこの人を応援しています」とはっきり声として公にしたり、内容を自身で共有したり、いいねやLIKEを付けることで、被害者を減少させる行動になるのです。

「応援を声にする」ことのできる社会の実現を目指したいですね。そして誰かが誰かを応援していて、もしあなたが賛同できないのならば、そこに関与しないという尊重も必要でしょう。誰でも「私はあなたの応援している気持ちがわからない、だってあの人はこういう人だから」などというようなコメントを言う権利はありませんし、それはワイドショー的に程度の低いコメントであることを誰もがわかりたいものです。

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