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音は個人のものでなければならないか

スマホが普及しはじめたころだったか、イヤホンの音漏れがまた最近ひどい、と書いたことがあるが、近ごろはイヤホンをつけない人も出はじめ、正直うるさく迷惑だ。

しかし一方で思うのだ。
果たして音はそこまで個人のものでなければならないかと。

今は高速バスに乗ると、会話も迷惑になるとのアナウンスが流れるし、周囲への配慮からイヤホン式の盆踊りまであるという。
昔はある程度他人の音を許容し、公共の場には雑多な喧噪があった。
少なくともバス車内で喋るなという放送は流れなかったはずだ。

読書というもの、明治頃までは黙読などなくすべて音読だったらしく、その頃の列車内はいろんな読書の声であふれかえっていたという。
明治人は今のバスや電車には乗れないな。

微細な音に対しても魔女狩りのように目くじらを立てるあまり、個々人の許容範囲がますます狭められている気がする。
清潔過信の日本人が、弱い病原菌にも耐えられなくなったのと同じ構造。
それなりに賑やかであれば多少の音漏れは紛れて分からないし、ふだん病原菌をシャットアウトしていなければ耐性も獲得できるのだ。

車内で他人の食べ物から漂うニオイも迷惑になることがあるが、もしニオイも音と同様に電気的に伝えることができるようになったら、みんな鼻にコードつないで、ニオイ漏れさせず一人でニオイを楽しむようになるのだろうか。

(2016/1/22記)

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