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地震発生の午前5時46分をバスの中で迎え、手を合わせた

〈阪神・淡路大震災〉から27年目の今日。
僕の中での震災は、やはりこの阪神・淡路大震災を指す。

***

27年前のその時、僕は未明の京都・七条通を小走りに東へ向かっていた。
当時僕は東京で勤めていたが、前日までの3連休で淡路へ旅行してそのまま京都の彼女の家に泊まり、当日は6時過ぎの始発の新幹線で東京に帰るため京都駅まで走っていたのだ。
ちなみにその彼女がかみさんだ。

突如、歩道が向こう側からこちらへと波打ち、思わずよろけた。
え? 大地震?
街灯に照らされたその特撮のような光景は今なお忘れることができない。

コンビニ前にさしかかり、商品がすべて床に投げ出されているのが見えた。
それでも震源が京都の、やや大きい地震としか思っていなかった。
いやしかし、京都の誰もがそう思っていたのではないか。

事実、京都駅の放送では、なかなか来ない始発ののぞみについて、間もなく到着しますと繰り返していた。
そんなもの、来るはずもなかった。

ラジオを聞いたのか、突然誰かが大声をあげた。

神戸がとんでもないことになってるらしいで!

うそ! 何それ!

公衆電話に飛びつき、神戸・塩屋の実家に電話をかける。
ボタンを押す手が震えた。

しばらくのコールの後、母が出た。

無事です。タンス倒れたけど机に引っかかって下敷きにならなかったから。

こわばった肩の力が抜けていく。
両親ともに無事でいてくれただけで十分だった。

これで心配はない、仕事も休める!と喜び、なぜか三十三間堂へ行った。
よく覚えていないが、コンビニ商品の散乱を見た後のことだから、きっと仏像も倒れているだろうと興味本位で行ったのかもしれない。
千体ある仏像は、やはり無惨にあちこちに向いて倒れていた。

スマホなどない時代、情報は入らず、10時に四条の大丸へと向かった。
電化製品売場に行けば、並んだテレビでニュースを見られると思ったのだ。

店内の床にひびが入り、段差ができている。
神戸の地震で京都のビルがこんなことになる? とまだ信じられなかった。

そしてテレビ売場に来た。
絶句した。

神戸が赤々と燃えていた。
高層ビルが倒壊し、岸壁が水没し、高速道路が崩落していた。

その場にしばらく立ちつくし、そしてヘナヘナとしゃがみ込んだ。
そこからその日の記憶はまったく残っていない。

***

これまでずっと神戸市民としてこの日を迎えてきた。
わが街・神戸が壊滅的な被害を受けた日。
〈阪神大震災〉と「淡路」抜きで呼んできたりもした。

そして、昨秋より淡路勤務になった。
現地では淡路抜きで阪神大震災と呼ばれるのを嫌う。
人口の多い神戸、阪神間の被害ばかり取り上げられるが、震源は旧北淡町(ほくだんちょう、現淡路市)で、淡路も甚大な被害を受けたからだ。

今年は関係者の一人として、早朝から淡路に駆けつけた。
始発のバスでも神戸からでは追悼式典には間に合わない。
僕は、地震発生の午前5時46分をバスの中で迎え、手を合わせた。

亡くなられたすべての方のご冥福をお祈りするとともに、被災されたすべての方にあらためて心よりお見舞いを申し上げます。

画像1震源地海域、そして対岸の神戸を臨む(淡路島から今朝撮影)

(2022/1/17記)

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