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ウィーンの幽霊アパート(2)

トシコさんは、どんな学生生活を送っていたのだろうか?

私たちは同じアパートの隣同士ではあったが、ほとんど会うことはなかったし、廊下ですれ違うことも滅多になかった。

トシコさんの部屋のドアは、19世紀の建物の特徴がそのまま感じられる木製の重厚なドアで、手で内側から開ける「ちいさな覗き窓」の扉も木製だった。 表側の黒光りのする木彫りも含め、アパート内の扉にしてはちょっと怖いほどの威厳があり、教会の扉のようだった。

部屋の中では彼女の練習するピアノの音を聴いたことは一度もなかったが、毎日ほぼ決まった時間にキッチンに立つ音が聞こえてきた。

一度私が風邪をこじらせて寝ていた時に、トシコさんは私に用があって呼び鈴を鳴らした。私がげっそりした顔をドアから覗かせると、彼女はまじまじと私の顔を見つめ、一時間後にとびきり美味しいお粥を鍋いっぱいに作って持ってきてくれた。私は感謝の気持ちでいっぱいになりながらそれを食べた。

母を連れて無事にウィーンに到着したあとは、引っ越しの荷物をまとめることがたいへんで、私たちは絶え間ない親子喧嘩をする羽目になった。ある時など他愛のないことで喧嘩になり、母はいつまでも片付かない段ボールの一つに腰を下ろし、いらいらとタバコを吸いながら、夜八時だというのに大使館へ行くからタクシーを呼んでなどと言いす始末だった。

とにかくこれでもかというほど、母が4年間の間にせっせと送ってくれたものがあちこちから顔を覗かせるのだった。でもその大半は衣類と(私がオーストリアの服は大きすぎて困るといつも言っていたので)日本の食材だった。

そもそも私は留学前に一度だって台所に立ったことはなく、リンゴの皮すらむけなかった。だから鰹節も、顆粒コンソメも、はたまたそうめんに至るまでどのようにして食べるのかがわからなかったのである。

母は自分が厳選して送ったはずの、山のような食品の多くが期限切れになっているのを前にして絶望的な叫びをもらした。

[もったいない!!!] [このお味噌も海苔も、いいものなのに封すら切ってない。いったい何食べて生きてたの?]

いやはや同感。でもどうしろというのだ。こちらも生きのびようとしてほぼ毎日、Wiener-wurst (ヴィーナー•ヴルスト=ウィーン風ソーセージ)や、シュニッツェル(ウィーン風カツレツ)なんかを求めて通りを彷徨っていたのである。

結局、まだ賞味期限が切れていないものはお隣のトシコさんにもらっていただこうという事になった。トシコさんはやって来て、私の家の日本食品のバラエティの豊かさとその数に目を輝かせた。

カレールーに、ふりかけ、老舗の乾物に高級鰹節.....。

当時のヨーロッパ(1999年頃)では、まだまだ日本食品は貴重だった。味噌のように平凡なものですら、学生に簡単に買えるような値段ではなかった。

トシコさんは何度も 「いいんですか?」と言いながら、たとえ期限が切れているからと言っても 「あ、全然平気です」と言って、せっせと袋に詰め込んだ。

次の日に、ほかの学生たちにも来てもらって大きな枕や布団など、必要なものはすべて持って行ってもらった。皆喜んでいろんなものを持って行ってくれたので、一日でほとんどすべてがきれいに片付いた。

明日は大家さんに鍵を返していよいよイタリアへ出発である

(続)

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