見出し画像

世界の果てで

コート・ダジュール。午後五時。
犬を連れた御婦人が座るカフェ·テラスには、地中海からの優しい風が吹いている。小さな丸いテーブルには洗いたての白いテーブルクロスが踊り、太っちょのハトがテーブルからこぼれ落ちたビスキュイのかけらをつまんでいる。太陽を反射してルビーのように光るアペリティフや、その日最後のコーヒーを前にお喋りをしている人々の頭上には、まだまだ沈まない太陽がたっぷりと陽射しを投げかけている。
こんな光景をぼうっと見つめていると、現在ヨーロッパのずっと東で起きていることがまるで信じられない。ついこの前、ウクライナの悲惨に破壊された町に住むひとりの老婆が、電気も水も止まった家から出てきて、カメラの前で【私は人生で何も望まなかった。ただの平凡な暮らし以外は。どうか普通の日常を返してほしい】と涙ながらに訴えていた。

この映像を見た瞬間、悲しみを通り越して久しく感じたことのないような絶望的な怒りが込み上げてきた。世界を牛耳ると言われる財閥とか、プーチンを含めすべての国の権力を握る人々は、この老婆のように無欲な人々が地球のどこかに存在すると想像したことはあるのだろうか?
貧しい人々にとっての【普通の生活】と言う、見向きもされない言葉の重みを一度でも理解しようとしたことはあるのか?

搾取する者たちは際限なく搾取することによってそれが普通となるし、それは常に大義名分に守られている。そして貧しい者たちや無力な人々は、この支配する側と支配される側の間にある【感覚】の恐ろしい隔たりによって、さらに中心から遠くへ追いやられ、さらにちいさく、さらに取るに足らない存在となっていくのだ。
私はふと思った。今の私達に与えられた【平和な社会】というものも、やはり都合よく作られた見せかけのものに過ぎず、逆に言えばこの見せかけの平和を型作る【すべてのもの】を与えられることで本質から気をそらされ、騙されているだけなのではないかと。浮き浮きしながら最新のスマホを握りしめ、メディアから発せられるもっともらしく民主的な言葉やスローガン、そしてファスト·ファッションやファスト·フードを日々せっせと摂取し続けている哀れな人類は、実はわずか5cmの薄氷で本物の地獄と隔てられているだけなのかもしれない。

深夜にパブロ·カザルスの豪快なバッハを聴いていると、ふと自分はもう地球から遥か遠くに来てしまったという気がする。その地点からは人間のすべての思考、動き、感情といったものが鋭く巧妙な光となってただただ美しく交錯しながら、カレイド·スコープのようにひとつの模様を作り上げている。
当然ながらそこから眺めた地球は、広大な銀河にふわっと浮かんでいる頼りないほど小さく愛おしい存在だ。そんなとき私は強い郷愁に駆られる(子供がろくでもない親を愛おしく思う瞬間に似ているのかもしれない)。これだけ悲惨な歴史が人間によって飽きもせず繰り返されている星。たくさんの人が自ら命を絶ち、絶望する星。でもこの青く生命力に溢れた星こそが私のただ一つの故郷なのだ。
そんなふうに人類すべてが地球という船に乗り、またその船上でしか生きていくことができない生命体であるという感覚は、私達の中に本物の絆を芽生えさせ、あらゆる価値観の相違の問題を乗り越えて本来もっと素晴らしい世界を作ることができるはずなのに。
などと今宵もぼんやり考えている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?