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ミラノ回想録

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毎朝ウィーンのパン屋さんで [ヴィーナー•キプフェル(ウィーン風クロワッサン)ひとつ下さい!]と言っていた学生の私が、ミラノというもう一つのヨーロッパの都会から仕事人生をスタート…
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2020年4月の記事一覧

夜行列車

飛行機嫌いの母のおかげで、ウィーンからミラノまで夜行列車の旅をすることになった。 私たちは洗面台付きの、割に居心地のいいコンパートメントに入り、今度ばかりは喧嘩をすることもなかった。お互いに引っ越しの疲れで、ほとんど話もせずに窓の外をぼんやりと眺めていた。 ちょうど夕焼けで、はじめ黄金色だったコンパートメントはあっという間に真っ赤に染まった。窓の外の田園風景が、みるみるうちに燃えるような夕日に包み込まれていく様子は圧倒的なまでに美しく、私はそれを母と感嘆の想いで見つめた。

ウィーンの幽霊アパート(2)

トシコさんは、どんな学生生活を送っていたのだろうか? 私たちは同じアパートの隣同士ではあったが、ほとんど会うことはなかったし、廊下ですれ違うことも滅多になかった。 トシコさんの部屋のドアは、19世紀の建物の特徴がそのまま感じられる木製の重厚なドアで、手で内側から開ける「ちいさな覗き窓」の扉も木製だった。 表側の黒光りのする木彫りも含め、アパート内の扉にしてはちょっと怖いほどの威厳があり、教会の扉のようだった。 部屋の中では彼女の練習するピアノの音を聴いたことは一度もなか

ウィーンの幽霊アパート

私の部屋のすぐ隣には、すでにウィーンでの留学生活7年になるトシコさんというピアノ科の音大生が住んでいた。 7年間の留学生活を送っている日本人学生は意外に多く、下の階に住むバイオリニストもオーボエ奏者も皆この幽霊アパートに7年住んでいた。 学生としての7年間の過ごし方というのは人それぞれだとは思うが、彼らは一様に26歳くらいにはなっていた。 つまり私と違い、彼らは日本の音大には行かずに(もしくは中退して)19歳くらいでこちらへやって来て音大で勉強しているのだろう。 ちなみにウ

引っ越し

私が引っ越しのために再びウィーンへもどったのは9月も半ばに近かった。 母も、日本で心配しているよりはと言って私について来た。 [ついて来た]と何気なく書いたが、母にとっては命がけの決断とも言えるものだ。 なぜかといえば、母は大の飛行機嫌いで東京~札幌間の飛行機の中ですら、まるでジェットコースターに乗っているかのように私の手を握りしめたまま、心配になるほど見を固くしているのだから。 そんな状態が12時間もの間続くかと思うと私の方まで気が重かった。 ウィーンでは山のような引っ越

知っているイタリア語は音楽用語だけ?

ただ、その程度の事がわかったところで母の不安が消えるわけではなかった。 私のイタリアでの生活の安全が保証されるわけでもなかった。 それに語学の問題もあった(それまで私のいた場所はドイツ語圏である)。私はイタリア語を音楽用語以外知らなかった(これは後になって分かった事だが、音楽用語としてのイタリア語を知っていれば簡単な会話ができるのである)。アンダンテ、モデラート、カンタービレetc..... 気の毒な母は明らかに[ゴッドファーザー]的イタリアが現実と思い込んでいて、[ニュ

人生初の就職はイタリア?

私がウィーンでのヴァイオリンの勉強を終わりにしてミラノのオーケストラに就職が決まったとき、いちばん慌てたのは母ではなかっただろうか? 母にとってイタリアとはいかにも怪しい国−—つまり女好きな男達が街を闊歩し、泥棒がそこら中にたむろし、商売人たちが哀れな観光客から金を絞りとろうと手ぐすね引いて待っている−—といった、まさにステレオタイプなイタリアの印象を持っていたと思う。 その時の私はオーディションに受かったというだけでなく、私にとっては「雲の上のような存在」だった世界的に