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「冷める」ときにあなたはつくられる

「冷める」というのはえてしてマイナスな表現として使われる。

料理が冷める、コーヒーが冷める。

気持ちが冷める、愛情が冷める、千年の恋も冷める。

ゆずだって、こんなふうに感傷的になっている。

僕自身、何度も気持ちが「冷めて」しまったことがある。

そのたびに、なんか気持ち悪いくらいに冷静な自分を外から眺めて「なんだか冷たい人間だな」って思った。

そんな僕を見抜いていたのか、大学のゼミの教授が僕にこんなことを言った。「君は器用貧乏になりかねないから、なんでもいい、恋でも遊びだっていい、何か一つに熱中してみたほうがいい」。

その言葉を受けて、社会人になった僕は仕事に熱中するようになった。良い接客をするための一つの手段として、心理学をかじった。

ミラーリング、自己開示、ダブルバインド、フットインザドア。そんな技法を接客に応用する方法ならもうたくさん試してきた。

そのだいたいはうまくやれるようになった。お客様を喜ばせながら自らの価値を上げることも、それなりにできるようになった。

でも、そのたびに思うのは「人の心理を操作してお前は面白いのか?」だった。うまくできるようになるたびに、人情味のない自分が浮き彫りになっていくのを感じた。「お客様の笑顔のために」なんてスローガンが僕の中で陳腐なものになっていくのを感じた。

人の笑顔をつくるなんて簡単、だって。

僕が今Cakesで連載していることは全て実体験に基づいている話で、恋愛に接客の技術を持ち込むとそれはそれはうまくいくものだった。

【Cakes連載:サービスが愛だと言うのなら】https://cakes.mu/series/4492

2回目のデートの約束だってその場で取り付けられる。
終電を逃させようとしなくても逃してくれるようになる。
帰ろうとしても「まだ帰りたくない」と言わせられる。

もちろんそれにはかなりのマインドセット(プライベートで会う人にフルで接客技術を行使するというのは実はかなり重労働)が必要だったから、簡単だとまでは言わないけれど、人の好意もつくろうと思えばつくれる、なんて思うようになった。

人の心理をある程度見抜けるようになったあと、気づくのは「自分も誰かに心理操作されているのではないか」ということだった。

それからは周りの人間に対して不安を持つようになる。

「この人は僕にこう思わせたくて言ってるんじゃないか」
「揺さぶりをかけたいからこんなふうに言うんじゃないか」

人は自分を写す鏡だとはよく言うもので、自分がやってきたことによって僕は他人に対してどんどん疑心暗鬼になっていった。元々人嫌いだったこともあってその気持ちは加速した。

いつしか何を言われても相手の心の裏を読むようになっていった。一言一言の裏の気持ちを勝手に想像するようになっていった。

「人間は所詮自分の欲望のために人を利用するものなんだ」と思うようになっていった。

それでもそれなりに生きていると、人を信じてもいいのかもしれない、という体験に出会うことはある。

誰かに助けられた経験、過ちを許された経験。誰かがうまくいったときに思わず涙を流した自分がいた、という経験。

人は信じていいのかもしれない、ではなくて、人に信じられている自分がそこにいるのを感じる経験をしていった。もしかしたら自分も実は相手を信じたかったのかもしれなかった。今までは他人に対して「冷めて」いた自分だったのが、今度は抱えていた不安が一つ一つ「冷めて」いくのを感じた。

この人には心のうちを話してみよう。そんなふうに思っていい人は周りにはいるんだと気づけるようにもなった。一度「冷めて」できた気持ちというのは継続するもので、今でも僕は他人を信用することができているようだ。

自分が人を信用できるようになると、心理学的な接客術というのはまた別の輝きを持ってきた。

悪意さえなければ、人を笑顔にさせられる技術である。僕は自分の欲望のためにだけそれを使うことを封印しようと思った。たぶん最初からそれでよかったのだけれど、僕はいろんなことに「冷め」ながらそれにやっと気づけた。

カレーは冷めるときに味が決まるなんて話を聞いたことがある。おでんだって、冷めるときに味が染み込むなんて言われる。

昔、美容師さんに「ドライヤーで温めるじゃないですか、ここで髪を抑えておいて、冷めるときに固まるんでそれでセットしてみてください」なんて教えてもらったことがある。

「冷める」というのは、熱を帯びて不安定だったものが落ち着いて形をつくる瞬間でもあるわけで。

情熱があることは素敵なことだし、一生懸命頑張れることはとても良いことだ。ただ、だからといって冷めたその瞬間をマイナスに思うことはないんじゃないかなと、思う。

同時に、熱することがなければ「冷める」こともない。まずは目の前のことに熱中してみること、うまくいかなくなったり急に熱が冷めてもマイナスに捉えないこと。そのときにあなたは今までにない何かを身に着けているかもしれないのだから。

そういえばゼミの教授はこんなふうにも言っていた。

「大変なときは『脚下の泉』を見たらいい。大切なものは意外と身近にあるものだよ」

この言葉が禅の「脚下照顧」からきているのか今となっては定かではないが、僕は「冷める」たびにそうやって足元から湧き出ていた源泉を見つめてきたのだと思うと、黒猫のドイツワインが好きだった教授を想いながら今日もワインを飲みたくなるのです。

皆様も素敵な人生を。ではまた。

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