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ブラジルの出来事

私は明日、交通事故に遭い、足を切断するかもしれない。はたまた、病気になり視力や聴力を失うかもしれない。色々な事柄が身の回りで、社会で起きていることを知らしめられる度に、明日は我が身、と、この言葉が頭の中の私が警鐘する。

ある重度障害を持つ子どもの進路について、Yahooの記事を読んだ。それに続くコメント欄にはこんな言葉が並んでいた。

『障害児は専門知識のある教員のもとで教育を受けた方が良い』

『こういう子どもがいるから支援学校があるのに、何故わざわざ普通学校に進学したがるの』

『お世話係になる子供が迷惑する』

なるほど。どのコメントも一見理論的であるように見えるが、なんだもやもやする内容ばかりだった。

障害者に対する差別や事件に関する考え方は、これまでの度重なる法の改正を経ても尚、私達の受けてきた教育にはほとんど反映されていないことがよく分かる。棲み分けをしたそのあと、私達に待つのは何か。この手の考えについては障害の有無は関係なく、『自分とは無縁の誰かに迷惑をかけられたくない』という心理がはたらいている。このコメント主達は記事の内容を、他国で起きている出来事レベルの捉えで話しているのだ。ゆえに、彼らは『障害者は自分たちの生活に迷惑な存在である』と上から物申している事に気が付いていない。明日にも身近な誰かが障害者という立場になっても、彼らは同じことが言えるのだろうか。

この記事についてはひとえに答えを出せるものでなければ、二極化すべきでない内容であると思う。少なくとも、遠く知らない街で起きていることではないのだ、ということは、私の胸に強く刻まれた。

ちなみにコーヒーはケニア豆が好き。


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