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史学と詩学

1 挨拶

 皆さん今晩は。いよいよ11月の一週目が終わりつつあり、そして今年も終わりを迎えつつあるこの頃、いかがお過ごしでしょうか?今年は、寒暖差がどうも高いようです。そしてインフルエンザの大流行の可能性も日に日に高まっております。どうぞお気を付け下さいませ。

2 史学

 さて、変わり続けながらも、繰り返される私達人類の歴史…史学(歴史を研究する学問:歴史学)の存在意義は何であろうか?この疑問に対する回答は多種多様でありますが、自分自身にとって、史学は、剛直な猛省の愛国心を育んでは、過去から現在に至るまで、そして現在から未来へと進んで行く中で、数多の人物・出来事・変化に、利害損得・喜楽禍福・進退賢愚等を確りと学び知って、国家並びに人民の利益並びに幸福の増進を成すものです。
 こよなく愛する我が祖国ベトナムの近現代の歴史書の中で、以下の日本語訳の文献に、自分は出逢い、そして購入しては、極めて苦しくも楽しく熟読することが出来たのは、本当に幸せなことです。

【序言】
 過去を誠実に理解しないまま、未来に着実に歩を進めることはできない。私たちがその過去に関与し、責任を負っていればなおさらである。
 私はこの本を、1975年4月30日の出来事の描写から始めている。その日、13歳の少年だった私は、丘の麓で、午後の授業までの一時(ひととき)を、友達と相撲をとって過ごしていた。その時、スピーカーから「サイゴンが解放された」というニュースが流れた。私たちは勝負をやめて解散した。
 私たちが受けた教育によれば、南部では20年にわたる辛く惨めな日々に終止符が打たれたはずだった。歴史の新たな時代を迎えて、私は社会主義教育が詰め込まれた頭の中で考えた。「道に迷った若者たちを教育してやるために、早く南部に行かなければ」と。
 だが、困窮した故郷の村を離れるチャンスが訪れるよりも先に、南部のイメージは私にも伝わってきた。国道1号線に、飛龍(フィーロン)[南ベトナムの運輸会社]のマークが入った長距離バスが姿を現すようになり、貧困に喘ぐ村々の脇に、時おり賑やかな人だかりができるようになったのだ。髪を肩まで伸ばし、ベルボトムのズボンを履いた若者が、跳び降りて旅客の乗降を手伝っていた。彼がドアに飛びつくのとほぼ同時に、バスはクラクションを鳴らし、アクセルを入れて勢いよく発進するのだった。数十年たった今でも、私はバスの両側面に書かれていた「快速」という垢抜けた派手な字体を覚えている。その時まで、私たちの目に入る大きなベトナム文字と言えば、横断幕に印刷された「社会主義建設」と「打倒アメリカ」を呼びかける勇ましいスローガンだけだったのだ。
 当初、フィーロンのバスが運んできたのは、ごく簡素な品物だった。ぴかぴかの自転車がバスの屋根に積まれていることもあった。南北分断の際に北部に集結し、統一後に南部を訪問してきた人の指には、一対の金の指輪が光っていた。幸運にも無事復員した兵士の背嚢には、プラスチック製の人形――寝かせると目を閉じ、オギャーと泣くすぐれもの――が括りつけられていた。
 私たち子供は、兵士たちが背嚢の底に隠して持ってきたマイ・タオ[作家、1954年に北部から南部に移住、1977年に国外に脱出した]やズエン・アイン[作家・ジャーナリスト、1954年に北部から南部に移住、南北統一後は作品が発禁処分となった]の本を読んだ。そして、『森に降り積もる雪』(1)や『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(2)よりも身近な文学の世界を知った。近所に住んでいた北部集結組の人は、南部を訪問してAKAIのラジオカセットを持ち帰った。それのおかげで私たちは、故郷を離れて前線にいる兵士が、母や子を思い出している様子を知った。歌の文句のように、「チュオンソンの山でホー伯父[ホー・チ・ミン]さんを思う」だけではなかったことをだ。私たちは、教科書に書かれた南部とは別の、もう1つの南部があることを知ったのである。
 北部にいた時、私は「全国が迅速に、力強く、着実に社会主義に進む」時代に、故郷の青年たちが堤防を造り、運河を掘るのを見た。また、南部で戦争に勝った人々が「世界が変わり、やがて新しい国土ができる」ことを渇望するさまを目にした。そして、青年たちが掘った運河が、社会主義の役に立たないばかりか、雨季が来るたびに私の村に洪水をひき起こすのを目の当たりにした。
 1983年、私は軍の専門家としてカンボジアに派遣される前に、サイゴンで1年間訓練を受けた。その間、士官学校の同期生だったチャン・ゴック・フォン(3)の2人の妹たちが、毎週私に4、5冊の本を持ってきてくれた。私は映画館や音楽学校、歌劇場というものを知るようになった。「解放」8年目のサイゴンはどん底状態だったが、それでも私にとっては文明世界だった。その頃、街のどこへ行っても、辻々でシクロの運転手が、くたびれた姿で客を待ちながら黙々と読書に励んでいた。彼らは思想改造収容所から釈放されてきた人々だった。私は、親しくなったシクロの運転手たちの話を通して、サイゴンの実情を理解するようになった。
 1997年の夏、『トゥオイチェー[若者]』紙の一群の記者たちが、さまざまな理由から職を辞した。ドアン・カック・スェン、ダン・タム・チャイン、ドー・チュン・クァン、グエン・トゥアン・カイン、フイン・タイン・ズィオウ、そして私フイ・ドゥックである。私たちは日常的に顔を合わせて、他の同業者たちと意見交換した。トゥイ・ガー、ミン・ヒエン、テー・タイン、ファン・スァン・ロアンといった記者たちである。テー・タインも、その頃、『フーヌー・タインフォー[街の女性]』紙の編集長の職から追われたばかりだった。『トゥオイチェー』の編集長だったキム・ハインも同様に、愛着を持つ報道の仕事を続けられなくなっていた。
 私たちは時事問題について、また世界やベトナムの出来事について、あれこれ語り合った。ある日、ドー・チュン・クアンの自宅に集まった時、そこにトゥアン・カイン記者も居合わせた。反共主義者とされていた歌手カイン・リーを賞賛する記事を書いたために、弾圧を受けた記者である。彼は私にこう言った。「この国で何が起こったか、改めて書くべきだよ。それは歴史なのだから」誰もトゥアン・カインの言葉を気にとめなかったが、私は、彼が言ったことが念頭にこびりついていた。そして、ある決意をもって、それまでよりも具体的な資料収集の作業を続けた。1975年以後のベトナムの悲劇に満ちた歴史を、1冊の本にまとめるためにだ。
 ベトナム共和国[南ベトナム]政府側の人々の子弟も含め、多くの若者は、1975年4月30日のサイゴン「解放」後については、社会主義教育が作った歴史しか知らない。自分の両親に起こったことさえ正確に知らない人は多い。
 1980年代の前半まで、「プロジェクトⅡ」(4)や「Z30」(5)など、数百万人の運命を変えた政策が、僅か数名の指導者によって決定されていた。一般庶民はもちろん、共産党政治局員でさえ知らなかった者は多い。学校や宣伝機関が提供する情報を通してしか、歴史にアプローチできないために、ベトナム人どうしの間で無用な衝突や争いが発生した。本書によって、一般庶民だけでなく、良識ある共産党員も、責任感をもって事実を受け入れるだろうと私は信じている。
 本書は1975年4月30日から始まっている。それは、北部が南部を解放したと多くの人々が信じた日だった。しかし、その後の30年以上を注意深く見直せば、多くの人は驚きを禁じ得ないだろう。解放されたのは北部の方だったのだ…と。経済学者や政治学者、社会学者には、歴史上の事象をより詳細に研究してもらいたい。本書は、「改造」「資本家打倒」「換金」政策など、4月30日以後のサイゴンとベトナムで起こったことを淡々と描写している。1970年代後半の2つの戦争、すなわちクメール・ルージュ[カンボジアの政治勢力]と中国との戦争や、1975年以後に国外に脱出した難民についても記している。また、農民や中小の商工業経営者、小商人たちが、自由な生活権を獲得するために一斉蜂起した事実にも言及している。
 本書のための資料は、私が20年以上かけて収集したものである。そして、2009年8月から2012年8月までのまる3年を執筆に費やした。下書きは、数人の友人と歴史学者に送ってチェックしてもらった。アメリカの著名なベトナム研究者5名も含まれている。そして、修正、加筆の後、2012年11月に完成原稿をベトナム国内のいくつかの出版社に送った。だが、原稿は突き返された。アメリカとフランスでは、名のあるベトナム語書籍の会社から、出版してもよいという申し出があった。しかし、私は本書について個人で責任を負い、また本書の客観性を守るため、自分で本を読者のもとに届けることにした。
 本書は、事実を追い求めた一ジャーナリストの作業の集大成である。私は、歴史の証人たちと出会い、情報を得る貴重なチャンスに恵まれたが、それでも本書にはまだ不備な点があるだろう。ハノイ政府が資料を公開したあかつきには、補足されるべき点もあるかも知れない。読者の助言を得て改訂を重ね、より完成されたものにすることを願っている。歴史上の事実はありのままに伝えられるべきであり、事実は私たちに決して避けて通れない道を示している。
2009~2012年 サイゴン~ボストン

 日本ではほとんど報道されていないドイモイ(刷新政策)の内実とホー・チ・ミン以降の指導者たちの権力闘争について、綿密な取材に基づいて、詳細につづられています。ここまで書いて大丈夫なのかと思われるほど、ないがしろにされた国民の怒りと権力者の醜い脚の引っ張り合いが赤裸々に描かれています。中国なら著者は即拘束されていたでしょうが、ある程度自由に意見を発表できるのはベトナムのいいところか。
 「ホー・チ・ミン主席は、独立宣言の直後に、「たとえ国家が独立しても、民が幸福で自由でなければ、独立にも何ら意味はない」と記している。ホー・チ・ミンの視野の広さを否定することはできない。主席がこの声明を出した時には、人類はまだインターネットを持たず、世界はまだグローバル化の時代を迎えていなかった。多くの国の人々にとって、民族独立は限りなく神聖なものだった。
 そのホー・チ・ミン主席が設立し、指導したベトナム共産党の政策形成の基盤が、イデオロギーではなく人民の自由と幸福だったならば、人々はプロレタリア独裁も、土地改革も、資本家階級の改造も、『ニャンヴァン・ザイファム』への弾圧も経験することはなく、民族や家族の中の無数の衝突を見ることもなかっただろう」(本文より)
 初めてのベトナム人自身によるベトナム現代史総括『ベトナム:勝利の裏側』の続編です。

左側が上記の文献であり、中央の四つの文献は、今後研究する文献です。

 もはた、フイ・ドゥック先生の序言が、自分の想い・考え・望み等をほぼ言い尽くしてくれましたため、もはや、自分が述べることはほぼありません。後は、フイ・ドゥック先生の大作、そして上記の中野亜里先生が著述・共著して下さった文献をも研究して、拙作『剛直な猛省の愛国詩集』を著述しては、完成させて、出版するだけです。

3 詩学

 昨日、一日中と徹夜を以て、拙作『人文傑出 剛直な猛省の愛国詩集』の最終的な構想・目次・解題・序文を完成させましたので、ご紹介させて頂きます。

拙作の表紙・扉

拙作の目次

拙作の解題

拙作の序文

4 結語

 フイ・ドゥック先生の大作を購入しては熟読できたことを、本当に幸せに思っております。そしてここに、出版社「めこん」と、翻訳して下さった中野先生に深謝の念を示します。それと同時に、中野先生の死への深い哀悼の念を、フイ・ドゥック先生のご無事への希望の念を、ここに示します。
 さて、こちらの拙作は、以下の拙作の完成・出版後に、研究活動を完了させてから創作・執筆して参ります。

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