書きたい気分。断片です。

今は、小さな公演が終わり新しい公演が始まるところ。オーディションも面談も、楽しくなってきた。近づいている感じがして、わくわくする。


思い返したい。とても楽しい公演だった。
中高時代の名残で自分より年下の存在を心の底から歓迎することができないまま始まった公演だったけど、始まってみれば驚くほど楽しくて全くの杞憂だった。ピチピチたちは可愛らしく私と接してくれる。ありがたくて、すぐに愛の気持ち。

他人のいない、自分一人だけの世界では決して楽しく生きていけないだろうと私は思っていて、というのも、自分一人だけというのは、実際に他者とかかわりが持てないだけでなく、私にいつも活力をもたらしてくれる他人の創造物もがない、ということだからで、
つまり私は、楽しみの源泉は他人にあると思っている。そういうわけで常にいろいろな人と関わりたいという気持ちがあり、出会いのためには新しいコミュニティに参加しに行く必要があるな…などと思っていたのですが、なんと、ここにいると新しい人たちが向こうから来てくれるらしい。感謝。大切にしていきたい。


中高時代には、少し遠くから見るような、憧れの女の子たちが何人かいた。詩を読めば、その子たちが脳裏に浮かぶことがあった。何かを思うときも。いわばミューズだった。けれど、大学に入ってからというもの、人にそのような気持ちをいだくことはなくなっていた。それが、一回生を見ていて、すこしだけその感覚を思い出せそうな気がした。

ところで、ミューズには女の子しかなれないのではないかと思う。血管に電流がながれる、そのとき、いつも、頭に思うのは女の子だった。


中高時代の私は確かに少女性を有していたと思う。大学に入り、まわりに触れて自由になっていく中で、それは如実に薄まってしまったのだけれど、でも、今感じる幸せの部分、と、少女であることの恍惚の部分、は、どちらがどちらに成り代わったとかではなく、わたしのなかの全く違う部分にそれぞれ存在していて、違うトリガーで引き起こされるものだと、最近わかってきた。外向的と内省的の二面性と、ちょうど重なるかもしれない。

年齢を重ねるのが怖い。太宰治の女生徒を読み返したくなった、というか、ここ暫くずっと読み返したいのに手元にない。むずむず。


最近ますます身体が強くなってきている。コーヒーを飲むと途端に頭がキマるし、ご飯を食べるとすぐに眠たくなる。眠たくなればもう心の底から、何もできないやりたくない!という気分になる。ホルモン周期で気分は落ち込むようになったし、何かの栄養が足りていないと心は正常なのに身体がイライラする。自分が結局は電気信号に大部分を支配されている動物なのだと強く思わされる。遺伝とかも考え始めると、どこからが自分の意思なのか本当にわからなくなり少し怖くなる。


昨日今日ときちんと大学に行き、眠らずに授業を受けた。大学にきちんと行くと当たり前に気分がいい。また、きちんとしている友人を見ると自分もきちんとしたいと思わされる。毎日大学でそういう友人たちと会えたらいいんだけど、大学って大きい。友達と同じ授業を取るのって、意外といいことなのかもしれない。


もうずいぶん長い間同じコンタクトレンズをつけ続けている。目がかわいそうだし、何より面倒くさい。明日早起きして絶対に眼科に行きたい。そして、コンタクトと眼鏡をつくりたい。頑張る。


本を面白さに一気読みすることが近頃はなくて、少し空しい。一つの本を、集中して読み切りたい。「一つの本を狙い撃ちして買う→一気読み」の流れがとても羨ましい。結局、本が好きだと言えるのって、そういう読み方ができる人ではないかと思う。うー。
芥川賞の発表も一週間後とかだ。候補作今から読み切れたりしないかしら。頑張ればできるような気がする。頑張ってみるか。

本ではないところだと、最近は劇場版エヴァンゲリオンを三作一気見した。面白かった。はやくシンを見たいと思っているのだけれど、一度勢いが凪ぐとなかなか。調子に乗ってレンタルビデオ屋で沢山借りたビデオも、見ないまま延滞してしまい、かなり多くお金を払った。レンタルビデオ屋の存続に貢献!と自分に言い聞かせたけれど、悲しいものは悲しくてやっぱり元気がなかった。


夜でした。あまり良い文章ではないが、これも軌跡なので、許すことにします。

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