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*「ホーリネス教会の軍国日本への協力と弾圧」

… 1940年(昭和15年)の初秋、兵庫県尼崎市の教会に、突然黒っぽい服装をした外国人がやって来た。その男は、神戸のユダヤ人協会の会員で、「日本の通過ビザを得たポーランドのユダヤ人が、日本に逃げて来ます。同朋を助けて下さい」と駆け込んで来た。

教会の瀬戸四郎牧師は、所属していた旧ホーリネス系教会の長老に相談すると、「イスラエルのために祈れ、と旧約聖書にある。瀬戸君、やりなさい」という答えが返ってきたという。瀬戸は仲間の牧師・箱崎登といっしょにリンゴを箱ごと買っては、難民の宿舎に配り、敦賀まで足を運んでは、「船賃を払わない難民は乗せられない」という船会社に船賃を立て替えたこともあるという 。

◆「杉原ビザ」のユダヤ人のりんごのエピソード
 
この記事では、1942年(昭和17年)6月26日の旧ホーリネス系教会の摘発にもにも言及され、「自分たちユダヤ難民と、温かい手を差し伸べてくれた牧師、信者たちの顔、顔 … 。そこにはドイツと日本のファシズムに危うく圧殺されかかった者たちの、か細いが確かな絆が息づいているようだ」などとまとめられている。
 
この「リンゴ」のエピソードを最初に伝えたのは、1988年(昭和63年)子供向け読み物『約束の国への長い旅』の著者の篠輝久である。同書のなかで篠は、「ホーリネスの人びと」が「ユダヤ人の救出につくそうとして、教団の人びとが弾圧されてつぶされてしまった」 などと述べているが、そのような事実はまったくない。
 
ホーリネス系教会(きよめ教会、日本聖教会など)の弾圧事件に関しては、ホーリネス・バンド弾圧史刊行会編による浩瀚な『ホーリネス・バンドの軌跡 – リバイバルとキリスト教弾圧』(1983)が新教出版社から出版されており、特高側の資料は、太平出版社から刊行された『昭和特高弾圧史 4 宗教人にたいする弾圧 下 1942〜1945』(1975)でも、同志社大学人文科学研究所キリスト教社会問題研究会編の『特高資料による戦時下のキリスト教運動』の第2巻と第3巻でも読むことができるが、特高側とホーリネス教団側との主張に、日付や事情聴取の内容の不一致はない。また、中田重治の伝記を書いた米田豊(1884-1976)と高山慶喜との共著『昭和の宗教弾圧 – 戦時ホーリネス受難記』(1964)などでも取り調べの実情の一端を知ることができる。
 
戦後の国立国会図書館調査法考査局による戦時の宗教弾圧に対する問い合わせに対して、きよめ教会は「キリスト再臨信仰」、そして「きよめ教会」の後身「基督兄弟団」(森五郎)は、検挙理由を「治安維持法違反」であるとして、「きよめ教会の信ずる教理中、基督再臨信仰は我が国体を危うくするものである。即ちキリスト再臨に依って出現する神の国は、日本の天皇にあらずして神が統治する神の國となると云ふ意想は我が国体に合致しない故治安維持法第七条に抵触するものであるとの理由であった」と説明しており、これは特高側の説明とまったく同じである。

「千年王國は地上に再臨する基督を統治者、基督空中再臨の際携挙せられたる聖徒を右統治に参与する王、神の選民たる「イスラエル人」即ち猶太人を支配階級と為す地上神の國なりと説くのみならず、右千年王國の建設に際りては我國を始め現存世界各國統治者の固有の統治権は全て基督に依り摂取せらるるものにして、我國の天皇統治も亦当然廃止せらるべきものなりと做し居れり 。

中日記事のように、旧ホーリネス教団の人々を「日本のファシズムに危うく圧殺されかかった者たち」と一括すると、まるでホーリネス教団が反ファシズム運動にでも参加していたような印象を読者に与えかねない。旧ホーリネス教団が弾圧されたのは、例えば共産党員やエホバの証人などの反戦思想による反ファシズム闘争が原因で弾圧された事例とはまったく異なるのである。

◆ 日米戦勃発で利用価値のなくなったホーリネス教会が弾圧を受ける
 
旧ホーリネス系教会は、反戦どころか、日本軍の大陸進出を積極的に支持してきた。だからこそ、きよめ教会長老派理事の大江捨一は、「自分は戦争に就ては他の基督教信者の如く反戦主義を持てゐない。神の経綸は此の戦争を通じて行はれてゐるのである、爲に私共の教会では日支事変が勃発した時に逸早く他の教会に率先して戦勝祈祷をなし國防献金をなした」として、予想外の検挙について驚きを隠さない。

「今次の大東亜戦争は之を通じて此の世界はセムの時代に転換する重大意義を持つ戦争であるから、此の戦争は尚益々拡大し遂にハルマゲドンの戦に進展するのではないかと思われる。イスラエル民族をしてその故国パレスチナに復帰せしむべき重大使命を果たすのが日本である。此の事は中田監督は十数年前より預言されて居りまたしが、今こそ此の神の使命を果たすべき時に日本は来てゐるのである」

このような特異な終末論から旧ホーリネス教団の人々は、ユダヤ難民たちを援助したのである。『約束の国への長い旅』に「ホーリネス教団の瀬戸四郎牧師は、ユダヤ協会からたのまれて、日本政府とユダヤ難民の仲介役を引き受け」たとあるのは、ユダヤ協会側がホーリネス教団のシオニズム的教義を知っていたからだが、「ホーリネス教団の人びとの行動は、警察に怪しまれ、憲兵隊にかぎつけられました」という篠輝久による説明や、中日記事の「ユダヤ難民の最後の一群が離日してから半年後の四二年六月二十六日、不気味な包囲網がとうとう姿を現した」などという記述を読むと、ユダヤ難民への援助が検挙理由と取り違いかねない。難民への援助は検挙と取調の口実ではあっても、実際の治安維持法違反被疑事件の論告には出てこないものである。
 
中日記事の「現在八十七歳になった箱島は、『検事はユダヤ難民のことも聞いてきた。難民救援援助がスパイ活動と疑われ、目をつけられていたのだろう』と話す。箱島の教会を捜索した特高は、『無線機はどこだっ』とわめき散らした」 とあるが、旧ホーリネス系教会の信者で通牒など外患罪に問われた者などおらず、ユダヤ難民との関係のみを強調すると、旧ホーリネス系教団への特高による弾圧の真意が見えてこない。
 
きよめ教会等旧ホーリネス系教会への迫害理由は、「キリスト再臨信仰」にまつわるものであり、「千年王國の建設に際りては我國を始め現存世界各國統治者の固有の統治権は全て基督に依り摂取せらるるものにして、我國の天皇統治も亦当然廃止せらるべ来るべき」という主張が、「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事」という治安維持法第七条に抵触すると見なされたからである。
 
先の米田豊(日本聖教会)が検挙された際の警部補による取り調べの状況は、以下のようなものであったという。

「千年時代」という項目を指して、「この時代に日本はどうなる?」と軽く尋ねた。私は突差の答に、「どうなるって、このまま進んで行くんでしょう」とまず答えた。なお説明しようと思う間もあらせず、俄に署全体に響き渡るような大声で「嘘つけ」と怒鳴られ、「十年前から調べて居るんだぞ」と怒鳴られた 。

斉藤源八(きよめ教会)が「礼拝者の中に信者でない男がいることに気付いた」 とあるように、特高側は各所に求道者をよそおった密偵を滑り込ませており、特高月報に残された、人的構成から教義や教線にいたる調査の正確さには驚くべきものがある。
 
新潟聖書教会の牧師である中村敏は、「ホーリネス系教会をはじめ昭和期のキリスト教会への国家の弾圧を見てくると、キリスト教を軍国主義勢力の被害者としてのみ考えやすい」が「それは歴史の一面であると言わざるを得」ず、「日本の教会は自分たちの組織を守るためにやむを得ず、あるいは進んで、国策に協力していった」とし、「特にアジアの教会にとっては、日本の教会すなわち日本基督教団はまぎれもなく加害者となったのである」 と指摘している。こうした実際に司牧に携わる聖職が、その痛切な反省と悔悟よって歴史の真実に向き合おうとする真摯な姿勢は、高く評価されなくてはならないだろう 。
さてそれでは、「十年前から調べて居」た特高は、なにゆえ1942年(昭和17年)になるまで旧ホーリネス系教会を放置していたのだろうか。 

◆ 中田重治師と軍国イデオロギー
 
先述したように、満州国が建国されるや、中田重治は、「満蒙に進出せよ」「満蒙伝導の急務」と呼びかけ、夫妻で天皇から観桜会に招かれるほど戦時体制との良好な関係があった。1942年(昭和17年)の一斉検挙では、特に『聖書より見たる日本』と『民族への警告』の二つの著作の親ユダヤ的傾向が問題視されている。しかし、『民族の警告』(1935年の再訂版)のなかで、中田重治は、「聖書の中には軈て我大和民族が大陸に向かつて進出することが書かれてある」と述べ、「日本は古より御人格により治められて來た國で、近頃の所謂皇道、王道を以て治められた國體である」と国体論を展開し、「聖書ぐらい我國體と合致したものはない」と、天皇制イデオロギーと自らの聖書理解の一致を述べている。
 
宮澤正典が「中田重治の国粋主義のどこに、日本を政治的危機におとしいれる可能性がひそんでいるのか」 と指摘するように、中田の国体論は、文部省の役人たちが編纂した「國體の本義」(1937)と類似点が多い。大きく違うのは、特異な終末論のなかでユダヤ人のパレスチナ帰還の後キリストが再臨して千年王国を開き、この際に世俗国家が止揚されるという点で、説教では特に明示はされていないが、当然の論理的帰結として天皇制も廃止されるだろう。

旧ホーリネス教団の再臨説に批判的だった日本基督教団財務局長の松山常次郎(1884-1961)は、「現下の基督教問題」(1943)という講演のなかで、旧ホーリネス教団の弾圧に関して、「文部省の役人から『千年王國の思想が法に触れたのだ』とはつきり聞かされました」 と、明確に述べている。
 
一転して弾圧を受ける前のこのシオニズム的神学観を官憲筋が看過していたのは、不注意からではなく、日米開戦以前は、「ユダヤ民族国家再建を唱える宗教家の強い影響下にあ」った同教会の「異色」の「親ユダヤぶり」が、官憲筋から格別の利用価値があると思われていたからである。


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