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映画評:『蛇の道』(2024) 黒沢清を巡る道


 

 本作だけでなく、過去の原作作品のネタバレを含みます。

 黒沢清作品を語るのは難しい、それこそ蛇の道のよう。

 全く事情を分からない人に説明するのが難しいが、当人の師である批評家の蓮實重彦の影響下が大きい。簡単に説明すれば、黒沢清は、シネフィル(映画狂の意味で蓮實重彦の影響が日本では大きい)ジャンル映画好きの間あるような人である。その意味で、批評家が作ったような作品である。その意味深なシーンの連続を読み解かず、そのままにしておけば、わりかし凡庸なまま受け取られがちではないかと思う、ゆえに、やたら複雑に、シネフィル的にあるいは、哲学的に小難しく語られることもある。

 私自身にとってどういう存在かというと、物凄く好きな作品(『アカルイミライ』『ニンゲン合格』等)そうでもない作品に極端に分けられる作家だ、また、批評家として、黒沢の書いたものは分かりやすい故に奥深く私の理想とするものだ。何回か舞台挨拶等で本人を見に行ったぐらいにはファンである。

 話を本題に戻すと『蛇の道』(2024)はセルフリメイク作品である。原作は、同監督の同タイトルのVシネ作品(1998)であるが、脚本家が変更されており、高橋洋は関与しておらず、黒沢清本人名義でクレジットされている。
 あらすじ等は簡略するが、元は殺された娘を巡るの復讐劇というシンプルなプロットだ。
 本作は舞台は90年代の日本から現代のフランスに舞台を移しているものの、本筋はそこまで変わらず、原作をそのままなぞっているし、台詞もそのまま置き換えず使われている箇所もある。
 ショットとして、大きく変更され、特徴的なのは、小津的な交わらない切り替えしの視線である、復讐のパートナー同志が視線的に交わることがなく、結局この切り返しが、ラストの画面越しの変更にも繋がっている。
 もう一つ、大きく変更点があるのが、原作だと哀川翔の役が、柴咲コウが演じる女性の精神科医、小夜子に変更されていることだ。
 この女性、というのが、どうもこの10年くらいの黒沢清の主題にある。
『クリーピー』等例外はあれど、女性視点、あるいは主人公が明らかに多くなっている。それはタイトルからも明らか。『スパイの妻』『ダゲレオタイプの女』。
 作品的に言えば、『贖罪』『Seventh Code』は、復讐劇として、モロに本作の前身にあるような作品だと思う。もう一つ余計なことを言えば、日仏が交わる点も含め、オリヴィエ・アサイヤスの初期作品風というか、『デーモン・ラヴァー』や『レディ・アサシン』を思い起こさせなくもない。
 もともと、黒沢清が別に性的に偏っていたとかそういうことではないと思うが、『アカルイミライ』のように男性的なタナトスというか、退廃的、鬱屈感というのはあったと思う。90年代的というか、青山真治や北野武の映画にも通ずる空虚な空気。そして、女性はどこか遠景というか、ファムファタルとまではいはないが、ミステリアスな存在にとどまっていた。
 『蛇の道』のこの性別の変更は、フェミニズム的とってしまえば、そうなんだろう。小夜子に近寄ってくる男は、みんなセクハラ的な立ち振る舞いをとる、これは原作にはない点。
 例えば、アルベールは復讐が進行するにつれて、馴れ馴れしくなってくる。小夜子の手に触れたり、復讐をしているはずなのに、妙にヘラヘラする。(これは原作の演技の香川照之の方がよい点で、本当は、この役はマチュー・アマルリックにやらせるべきではなかったかと思う)挙句、最後の方には「日本に行きたい」と口にする。

 精神科に通っている患者の吉村のシーンは、全く原作にない大きな改変部分。最初の面談のシーンで、吉村は小夜子に対して、高圧的な態度をとり、プライベート的な質問をガンガンしていく。令和の時代、パワハラ的と言わざるを得ないだろう。精神的に追い詰められた吉村に、小夜子が日本への帰国を促すと、吉村「そんなことしたら、終わりますよ」と。小夜子はそれに対して「本当に怖いことは終わらないことでしょう」という返事をする。この言葉が呪いのようにして、吉村は後日狂気的に死を遂げるわけである。
 
 原作の新島が、どこかこの世のものでない死神的な空気を匂わせる宮下の鏡的な存在であったのに対して、本作の小夜子はこの世のものであり、どこまでも復讐の鬼なのだろう。ラストの改変も、ループ的に復讐の連続性(それこそ終わらないことの恐怖)を訴えていたのに対して、本作は、原作になかった旦那、宗一郎=男性(青木崇高)に対する復讐の予告(終わらせることで)で本作は締めくくられている。復讐を遂げ、明らかに憔悴し死んだ顔の小夜子が「穏やかな顔」な訳がない。
 
 黒沢清は、以前、映画の外部に対する外部の考察をしている。簡単にいってしまえば、21世紀の映画には、河がよく登場し、その河には映画の外部、つまり観客側の暴力的な現実の世界の象徴としてあるのではないか、というものだ。

 もちろん本作に河は登場しないものの、この論で登場する『ラルジャン』の影響は復讐劇である本作にもあるだろう。特にラストの宙づりされたままの感覚はよく似ている。黒沢は、その映画の外部の登場は暴力的ではあるが、同時に希望的だと述べている。
 希現代人はどこか当たり前に生を享受し、スマホやPCのように機械的に永遠が続くことを前提に生活している。その一方でもはや当たり前に、パンデミックや戦争の長期化という底の見えない終わりの見えない暴力の背景を抱えている。
 本作は復讐劇をというジャンル映画の程をとっているが、これは黒沢の暴力の考察なのだ。

 

 


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