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スポーツ選手/アスリートを支援することが抱えている危険性

「アスリートの支援を!」というのはよく聞くフレーズである。しかしながら、現状の仕組みを冷静に考えると、盲目的な支援はアスリートやスポーツ選手の人生や将来を自ら閉ざす方向に頑張らせている可能性がある。この点についてまとめておく。

身体能力は衰える

スポーツ選手の現役の時間は短い。例えば年俸が億を超える、少なくとも数千万円は超え資産形成が出来るほどの規模であればスポーツだけを頑張ってもどうにかなる可能性は高い。さらにそういうトップ選手は引退後も、知名度を生かした様々なオプションが存在する。まさに勝者総取り構造になっている。

一方でそれ以外の人々はどうだろうか?人生の全てをかけて頑張った結果、引退後に使えるスキルもなければ、知名度もなく関連の仕事もなかなかない。全財産をかけて宝くじを買った結果、外して一文無しになった状態に近い。

「メダルを取っても何にもならない」発言

よく「メダルを取っても何にもならない!」という発言が効かれるが、よく考えてほしい「メダルを目指します!」と言って「メダルを取った!」のだから、これ以上に無い成功ではないか。

スポーツ選手は、見方によっては世界大会に出ているフリーターの側面が強い。

しかしながら「何にもならない」という。おそらくこの「何にも」は経済的・社会的成功を意味していると思われる。一部の年俸が億を超えるもの以外はそうなっていない。構造上しょうがない。

『授人以魚 不如授人以漁』・魚と魚の釣り方

「飢えている人がいるときに、魚を与えるか、魚の釣り方を教えるか。」という話で、「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていける」という考え方です。

釣り方だけでなく釣り竿の調達方法・作り方から教えてもよさそうな感じはするが、それは置いておいて。

一時の小銭をアスリートに与えることは、独立して生活していく機会を奪うことになってしまう。

「スポンサー」の意味

そもそも「スポンサー」とは何だろうか?勘違いされている可能性が高いが、「都合よくお金を出してくれる存在」ではない。

いろいろあるが、ここはプロジェクトマネジメントのプロジェクト・スポンサーから引用しよう。

(1)スポンサーは顧客である
その理由として、資源(資金)提供元の顧客こそがスポンサーであるから、としている。
だが、この場合は顧客がプロジェクトマネージャーの範囲を超える課題についてエスカレーションを受ける、という事になる。これは必ずしも成り立たない。例えば、資金が足りない時に顧客へエスカレーションするだろうか?

一般的に「スポンサー」は「金を出すから思惑通りに働いてくれ」と働きかける人々の位置づけである。スコープをきっちり設定することも多い。

特にメディアに持ち上げられるスポーツ選手についているスポンサーは「国際大会で勝って、名を上げてうち(スポンサー企業)の知名度とイメージを上げてくれ」と暗に言っている。逆に目立たなければ意味もない。更に年間契約などの場合、選手の将来など知ったことではない。これは仕組み上真っ当である。

善意でアスリートに自分で自分の首を絞めさせている構造

アスリートの支援を!と言っている人たちと実際に支援をしている人は、善意で行っていることが多いだろう。

しかし、金銭を支援をすることでスポーツで少々の小銭が稼げてしまった結果、スキルを付ける方向に力が働かず、勝つのも困難で、仮に勝っても大半の人は自己満足しかえられない競技力の向上に時間と労力を使わせる方向に力が働いてしまう。結果として何もできない選手が増えてしまう仕組みになっている。

「道具が買えない」等なら道具を直接現物支給する等なら健全な感じはするが、金銭はスポーツ以外から自分で得られるような仕組みの方が健全である。

スポーツのために、費用のわりに手間がかかるクラウドファンディング等を行うことは、さらに悪循環を呼びがちである。

協会や団体運営との関係

協会や運営も、特にスポンサーからの資金をあてにしている場合、目立たせることに注目するのは言うまでもない。

しかし一部のメディアに取り上げられるスポーツ以外では、規模的にも仕事が出来る人がいたほうが運営上よい。さらにそのような仕事が出来る人たちであれば、引退してからも仕事があるので、30代40代フリーターのようにはならない。

仕事が出来る人たちが日本代表にもなりやすいような制度にすれば、アスリートは必死に勉強し、スキルアップをする

運営としても、多くを雇うことが出来るほどの規模はない。では、日本代表選手の一部の枠を融通して、監事を担当できる弁護士や会計士の資格を持つ選手を優先的に日本代表へ内定させたりすればどうだろうか?

「スポーツが出来ても何にもならない」が弁護士を兼任しているスポーツ選手がスポーツ選手を引退すれば、晴れて弁護士になる。30代40代フリーターが多い中、弁護士なら仕事はまだあるだろう。

更に逆に「勉強を頑張ればスポーツでも日本代表になれる!」と思って勉強する層が増えれば、引退後に仕事の無い選手も減り、スポーツ自体の社会的地位も上がっていくことだろう。

スポーツの歴史でも、元々戦争捕虜の奴隷が、現代のアスリートに対応する剣闘士として戦っていた。大半は戦死しているか一部はヒーローとなって引退していた。

中でも剣闘士を退いた後に高い地位にあったものがいた。その人は剣闘士をやる以前に「皇帝」であった。皇帝が剣闘士をやめれば皇帝に戻ったのである。元から地位が高い人がアスリートをやっていたので、アスリートを引退したら地位が高い人に戻ったというだけである。この考えを踏襲すればよい。



オリンピックが混乱中の中、日本のスポーツも捉え方を変える転換点に来ているのではないだろうか?

協会の運営と代表選考の関係や融合など、異なるやり方を通して、やり方を変えていく必要がある。


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