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その108 坂東33観音霊場 1番札所 杉本寺

観音霊場がたくさんありますが、近隣の中では一番メジャーな霊場である坂東33観音霊場を巡ることにしたのは6年ほど前です。3巡回りましたが、子供たちへの願掛け、安産を祈願。それにちょっとした小旅行を兼ねての楽しみにしました。
その札所一番は鎌倉の杉本寺です。順番通り巡るのは、それぞれの場所の都合上難しいので、巡る順番はバラバラになります。しかし、一番と三十三番だけは札所番号に従いました。なぜなら『発願』と『結願』の印を押してもらえるからです。左上に『発願』をいただきました。

ご朱印坂東01杉本寺[1]

坂東札所第一番鎌倉最占仏跡天台宗大蔵山杉木寺略縁起
当山は天平六年(七三四)の春、光明皇后の御願により大臣藤原房前と僧行基(行基菩薩)に命じ堂宇建立し行基自ら刻むところの十一面観世音を安置された。次に、仁寿元年(八五一)に僧円仁(慈覚大師)当山に参籠して十一面観世音を刻み安置し、また寛和二年(九八五)僧源心(恵心僧都)が花山法皇の命により十一面観世音を刻み安置し、併て坂東第一番の札所と定め、法皇自ら御順礼有り、夫れより今日に至るまで貴賤の順礼絶えず。時に文治五年十一月二十三日の夜、隣屋より火災起り、類焼の際、本尊三体自ら庭内の大杉の下に火をさけられたので、それより杉の本の観音と今日迄呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。
其の後、建久二年九月十八日に源頼朝公御堂再興せられ、古今の奇瑞に帰依し賜い供養の日に、上の三尊像を内陣に安置し別に今前に立ち賜う立像七尺の十一面観世音を寄進されたものである。なお昔より本尊の賞罰の数ある中に放逸の輩、信心なくして御堂の前を馬にて乗り打ちする者は必ず落馬すると云うので、当時は下馬観音と云った。
時に建長寺の開山大覚禅師が此の観音堂に参籠し、尊像を拝し祈願し禅師が所持し賜う袈裟を以て行基菩薩御作の慈眼を覆い奉り、夫れより覆面観音と号し、往来の不浄は彼の袈裟にこり落馬等の利罪も止むと云う。依て頼朝時代より秘仏とされたのである。


私はJR鎌倉駅から徒歩で行きました。鎌倉は大好きなので鎌倉の町を楽しみながらお参りに行きました。

かつて平安末期から鎌倉時代にはこのお寺の近くに杉本城があったようです。頼朝が挙兵した時の城主は和田義盛の弟、杉本義茂でした。
三浦一族が頼朝の挙兵に向かいましたが酒匂川を渡れずに帰ってくるところ、同じく参戦できなかった平家方畠山重忠一族と鉢合わせ、一旦にらみ合いましたが、もともと親戚関係の両族なので、何事もなく別れるところに合戦と勘違いした杉本義茂が杉本城から飛び出してきて『小坪合戦』となりました。この戦いが、後に頼朝が千葉で三浦一族と合流できたきっかけにもなっているのが歴史の面白いところです。杉本義茂の勘違いがなかったら、たらればの世界ですが、頼朝は千葉で死んでいたかもしれないと想像するのもおもしろいです。

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