見出し画像

「自分は不完全だ」という魔法の言葉★宇宙は不完全

2022年を占うのコピー (2)

「自分は不完全だ」という魔法の言葉★宇宙は不完全

★1月8日はホーキンズ博士の誕生日だったと、Googleのアイコンが変わっていましたね。

ホーキンズ博士は、「宇宙の真実を知りたい」
それに一生を全うした。

ホーキンズの本を一冊だけ持っているが
宇宙物理学者も、哲学も言ってることは、とどのつまり同じになってくる。

ホーキンズは
「宇宙は不完全である。不完全でなければ、あなたも私も存在しない」
と言っている。
まさに真理。

宇宙についてヴェーダで言っていることは
絶対の実在、全知万能、至高の歓喜であり愛。

しかし、そうでありながら
私は、宇宙は不完全。私たちも不完全だ。と思う。
私たちがそれを解釈しようとするならば。

それを、アナザーワードにするならば
「宇宙は無限」だからだ。とも言える。

★私は幸せだ。

いつもそう感じるわけだが、でも
「完全に幸せか?」と、自分に問うならば
それは不完全だ。

うっかり、ニュースをみれば、人や国が争っていたり、
苦しんだり悲しんだりしている人がいる。

そんな世界を目の当たりにする度に
「あぁ、まだ私は不完全だったのだ」と思い知らされる。

でも、それでもいいと思っている。

だからこそ、まだまだ
幸せとは?を死ぬまで見出すだろうし、
死ぬまでに、まだまだ、この世で取り組むことが与えられていると理解できる。

それが、誰の為でもいい。
自分の為か?人の為か?宇宙の為か?神の為か?
それは、本当にどうでもいいことだ。

やることが、あるだけ。
その不完全な完全があるだけのこと。

無の中の有、有の中の無とは、そういうことでもあるだろうと思う。

★私の魂の師は、随分前にこう言っていた。
「自分が¨出来る¨なんて、思うもんじゃない」と。

私は、最初に聞いたときも、二度目に聞いたときも理解出来なかった。
「自分には出来るんだ!」そんなモチベーションって大事だと思っていたから。

なので、
「それって、出来ないと思っているほうが、出来ていないことを頑張ろうと思えるから?」
と、聞いたが
「そうじゃないんだよ。それでは、まだ自分は出来ると思っているだろう」という。

そして、昨年末もまた、師は同じ話をしていた。
「自分が出来なかった時に、俺はこんなはずじゃない、もっと出来るはずだとか思うやつがいる」
「そもそも、出来ると思っていることがおかしい」と言っていた。

いまだに、師の言ってる意図の全貌はわからない。

でも、私はあれからいつのまにやら「出来る自分になろう」だなんて、思わなくなっていた。

それは、自分をとても自由にしたと思う。
ヴェーダでいう「結果の放棄」とも似ている。

結果という完全さなど、求めれば求めるほど、遠ざかる。
蜃気楼みたいに、歩いても歩いても、見ようとすればするほど、遠ざかる。

でも、やるべきことを、私達は「する」

もし、それを受け入れたならば
もはや、誰かや社会の承認や評価など
全く気にならなくなるだろうし

自分へも、他者へも、無駄な期待や、評価もしなくなる。
つまり、受容となる。

受容をすることは
自分の生き方が、楽に自由になる。

★ヴェーダを学ぶと、みな途中で葛藤にぶち当たるのは
「自分が、サットチットアーナンダだと言ったって
現実の自分は、いつまでたっても、そうじゃないじゃないか」だろう。

しかし、それは
宇宙の矛盾を受けれ入れていないし、
宇宙を理解していないだけなのかも知れない。

矛盾は、受け入れたほうがいい。
宇宙は、私達にしたら矛盾そのものだから。

例えばー
地球人のもれなく、悪人も経験している。
今世じゃないかもしれないにしろ。

それを経験し、理解しなければ
私=宇宙そのものということへの、理解にも至れなくなってしまう。

宇宙は全てを含んでいる。

自分の悪や、出来の悪さなども、
全部認めて、受け入れた時にも
ひとつの受容が生まれる。

この時に、自分も他者も受け入れるプロセスが出来る。
その先にしか、悪や善といった二極を
純粋なものに、昇華させることは出来ない。

「私は悪じゃない」など、愚かな考えだ。
周りの悪を排除しようだとかいう正義も、もっとも大愚かだ。

そういう意味でいえば、師が言っていた
「自分が出来るだなんて、そもそも思うのがおかしい」という意味も
何かがわかる気がしてくる。

ホーキンズ博士も、師も、
その「不完全さ」について、どういう意図で言っているのか
私が「完全」に理解しているなどとは、到底思えないが

そのことについて見出し続けることは

人々の幸せや、この世界の調和についてなどを
見出し続けることと同じで

全ては、この地で宇宙の無限さを体験しているのだと、感じる。

★もし、自分に対して「完璧主義」になってしまい
自分自身にプレッシャーをかけてしまう人がいたならば

そもそも全ては「不完全」であることは、受け入れた方が楽になる。

そして
誰かに、素直に頼っていい。
それが「信頼」だ。

私たちは、なぜ独りぼっちではないのか?
なぜ、世界中の人や、自然や、精霊たちが、一緒にいてくれているのか?

そこに視点を向ければ、
自分が不完全だからこそわかる。
全てに対して感謝となることが。

そして
素直に自分の不完全も、他の不完全も受け入れると

結局は
私も、全ても、
ひとつのワンネスという「完全」でもある。
という
自分への「信頼」となる。

不完全だからこそ、理解できる「愛」がある。

「不完全」を受け入れることは
それを、知ることの出来る「魔法の言葉」でもある。

私が昔、好きだった曲がある。
ユー レイズ ミー アップ
特に、この動画バージョンが好きなのだ。
歌を聞いている人々の表情も、歌っている方の純粋な声も。
日本語訳つき版です。

https://youtu.be/jVZRMVPTwos

★雑談

2022年の予測でも、
これから、自分で考え、自分で行動できる人が飛躍していくだろう
と、書きましたが

おかしいことを、「おかしい」と、言えることは
日本人の苦手なところ。

もはや「おかしい」ことに、気づかないというか。
それこそ、不完全を受け入れていない。

周りがそうだから、自分もそうする。
という何も自分の考えも、意見もなく行動する人類のことを
集団精神病や、集団サイコパスという表現をする人もいる。

日本人はとくに
従順なのはいいところでもあり、弱点でもあるかもしれない。

しかし、これから、どんっどん5年、10年かけて
いや、そんなにかからないかもしれないね。
目覚め、変わっていくだろう。


イタリアのナポリでは、2022年の新年の花火を
市が変異種の感染症拡大予防のため禁止しました。

ナポリは、私も訪れたことのある場所で
その当時の人々の生活が、そのまま甦るかのようなポンペイ遺跡や
そのポンペイに灰を降らせた活火山、
美しい青の洞窟などがある。
ピザはもちろん、おいしい。

さて、以下の動画は
その新年の花火を禁止された
ナポリ人達の大晦日の様子である(*‘∀‘)

「従う」とは、なんだろう?
私たちは、「何に従うのか?」

「意思を表現する」とは、どういうことだろう?
日本人に問われる動画である(*‘∀‘)笑

https://youtu.be/bO1NEnwgthg
なんか、気持ちいいよね!笑

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?