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ライアン・ゴズリング 薄幸なイケメン

ライアン・ゴズリングは好きな俳優の一人だ。顔立ちが際立って整っているいう訳でもない(と思う)のに、纏う雰囲気にどうにも目がいく。初めて観たライアン・ゴズリングの映画は「ラースと、その彼女」(2007年)で、現在のハマリ役の寡黙で孤独なキャラクターとは全く異なるが、言外で多くを語るその演技は素晴らしいものだった。ただ、この時点ではまだ私にとってライアンの印象はさほど強いものではなかったように思う。

彼の名前をはっきりと覚えたのは「ブルーバレンタイン」(2010年)である。
序盤、主人公二人の少しだけ装いながら互いの距離感を測りつつ相手に心を開いてゆくチャーミングなやり取りは、くすぐったい気持ちになりながらもこれから始まることへの予感でキラキラしていた。
そして互いの気持ちを確認してからの甘い蜜にどっぷりと浸かるような幸福な時間。
その後家族という確かな形を手に入れたはずも、環境や自分たちの変化に少しずつ、でも確実に互いに距離ができはじめる。
何か大きな出来事があった訳ではない。ただ、日々の暮らしはいつだって何気なくこういったすれ違いを重ねていくのだろう。そしてある日、どうしてこんなところまできてしまっていたのかと、呆然と立ちすくんでしまう。
そして予感される通りの切ないラスト。
ああ、もうこういう風になってきたら何をどうしたところでダメなんだろうな、と頭では分かっているのに、色濃く残る思い出の残像と、もしかしたらという一縷の望みにどうしようもなく後ろ髪を引かれてしまう。そんな誰しも身に覚えのある終わりの雰囲気と、見苦しくとも抗ってしまう人間らしいみっともなさをライアンはこれでもかと見せてくれた。

その後、誰かと気持ちを交わしたいと思いつつも、それを自分に許すことのできない物寂しい雰囲気のキャラクターを演じる作品が続く。
「ドライヴ」(2011年)では、どう考えても互いの道は交わらないと奥底で知りつつも、隣に住む母子との触れ合いを切望してしまう口数の少ないプロの逃し屋の葛藤を、「ラ・ラ・ランド」(2016年)では自分と同じように夢を持つ恋人との、それぞれの目指すもの故に離さざるを得なかった手と、その先にあったかもしれない未来への愛惜を、「ブレードランナー2049」(2017年)では誰もが存在意義を無くしかけた時代で、自分だけは特別だという可能性を求める渇望を。

私は素直でおおらかなタイプよりも、叶わない想いを抱えつつも表には決して出そうとはしない矜持のようなものを抱えるキャラクターに惹かれるのだろう。そんな相手とではほのぼのとした未来があるはずもなく、実際にそういう人とどうこうしようと思ったらなかなかにハードそうなので、映像の中の薄幸で孤独な主人公に心を寄せるので満足しておこう。

などと書いていたら、「Barbie」でのケン役のルックが公開されているではないか!寡黙な雰囲気はどこへやら、ネオンカラーのウェアでローラースケートをするブロンドヘアのライアン…でもグレタ・ガーヴィグが監督ということなので、これはきっと観ちゃうんだろうな。
薄幸でなくとも孤独でなくとも、結局ライアンは魅力的なのだ。


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