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アンコ椿は恋の花

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戦後間もない伊豆大島での淡い初恋
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アンコ椿は恋の花(最終話)

アンコ椿は恋の花(最終話)

嵐は、今朝六時ごろ急に東へ進路を変え、速度を上げて日本から遠ざかっていった。
第二金剛丸からの発信は四時の定時報告を最後に途絶えた。
波浮港の基地局の通信士、塚谷恭一郎がいくら電鍵で呼びかけても応答がなかった。
考えられることは、最悪の場合、沈没または転覆であり、希望的観測で言うならば発電機の燃料切れか、通信機の不具合で連絡ができないでいるかのいずれかだった。

伊豆大島付近は嘘のように晴れていた

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アンコ椿は恋の花 (8)

アンコ椿は恋の花 (8)

暴風雨は、小笠原諸島の西側を速度を落としつつ北上していた。太平洋の海水温が高いために、中心気圧は960ミリバールと低かった。
米軍機がこのタイフーンの調査をしており、その情報は東京気象台にもたらされ、日本放送協会のラジオ放送を経て国民に知らされた。
一方、第二金剛丸は小笠原諸島よりも北の八丈島寄りの付近を漂流しているようだった。
昨晩の無線のやりとりでは、ベヨネーズ岩礁付近で根がかりによって舵を失

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アンコ椿は恋の花 (7)

アンコ椿は恋の花 (7)

舟屋りんは、あの「ロザリオ事件」とでもいうべき小さな出来事で立木祐介のことを見直していた。
「やっぱり、男の子はやるときはやるんじゃなぁ」と感心もし、それは恋情などではなく弟の成長を喜ぶ姉の姿に等しかった。
もとより、りんには中嶋治次(はるじ)という想い人がいたわけで、その意味では祐介の加わる余地は、先(せん)からなかったのである。
りんと治次は将来を約束し合っていた。

「よう、りん」「あ、先生

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アンコ椿は恋の花 (6)

アンコ椿は恋の花 (6)

塚谷ふじは、銀のロザリオを手に取って切れた鎖を見ながら深いため息をついた。
その目に映っていたものは、ロザリオなんかではなく立木祐介の死んだような貌(かお)だった。
「ゆうすけ…」
恋する乙女は、その人の名を口に出した。
はっと、我に返って少女は周りを見回した。
窓の外には蘇鉄(そてつ)が風に葉を揺らしていた。昨日から風が強くなり出して、嵐が近いのかもしれなかった。
窓ガラスもカタカタといつになく

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アンコ椿は恋の花 (5)

アンコ椿は恋の花 (5)

海で溺れたことを祐介は父母には言わなかった。
というより、言えなかった。
りんに責任が及ぶとも考えられたし、元はと言えば、祐介の衝動的な行動が原因なのだから。
それに…塚谷ふじの唇の感触が祐介によみがえる。
気が遠くなるその先に、ふじのクルスが光って導いてくれたのだ。
「生きよ」と。

父が、夕飯の時に、
「あした、釣りに出掛けよう。梅原先生にも声をかけてな」と祐介を誘った。
「うん、いいね。道具

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アンコ椿は恋の花 (4)

アンコ椿は恋の花 (4)

あくる朝、舟屋りんが祐介を誘いに来た。
りんの母親が朝食の支度をするのを手伝ったあとだったのだろう。
「ご飯食ったら、おたいね浦のほうに泳ぎに行ご」と、言うのだ。
「どこなの?それ」祐介は鯵(あじ)の干物をつつきながら、尋ねた。
「港の裏山を登って島の東側に出て、すこし行ったところ。筆島(ふでしま)ていう尖った岩があるべ」
「へえ。遠いの?」
「すぐよ。三十分もあいべば(歩けば)つくずら」
祐介は

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アンコ椿は恋の花 (3)

アンコ椿は恋の花 (3)

立木家は、伊豆大島での初日の夜、祐介と昼間一緒だったりんの友達のあんこさんたちを呼んで、網元の中嶋治次(はるじ)が用意してくれた、とれとれの魚介類で浜焼き宴会を別荘の庭で催した。
祐介の父春信が、島の人々とお近づきのしるしにと、ささやかな宴に招待したのである。

波浮にも梅原高明(こうめい)という医者が一人いて、その人は祐介の祖父が帝大の医学生だったときの同期だったそうだ。
先の大戦で跡取り息子に

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アンコ椿は恋の花 (2)

アンコ椿は恋の花 (2)

その日の昼下がり、別荘の各部屋を祐介は見て回った。
洋館建ての一階は、台所と庭にテラスが張り出した食堂で、眼下に波浮の港が広がっている。
その向こうは太平洋だった。
庭木は、町田の実家に比べて少なく、地面は芝生だった。
町田の医院の庭は空襲でも焼けなかった桜や欅(けやき)、春楡(はるにれ)、椎がうっそうとしていて、昼なお暗いイメージだったが、ここは全く違った。
門のわきに、背の高い棕櫚(しゅろ)が

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