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パステル作家 masaさん

8月24日、午前10時頃、パステル作家のmasaさんが亡くなったと知ったのは翌日の夜、SNSである。
コロナによる肺炎とのことで享年は43歳。
世間を脅かしているコロナにより旅立った訳であるが、上に書いた情報以上を私は知らないのでこれ以上コロナに関する記述は書かないことにする。素人が下手に想像して書いては変な誤解を生むことになるし、何より私はmasaさんの思い出を書きたいのであってコロナを主役にするのは本意ではない。
私はmasaさんとは短くない付き合いである。しかし友人と言われれば違う気がする。知人くらいに止めておいた方がいいと思う。しかしmasaさんからすれば友人と思ってくれていたかもしれない。それならばそれは嬉しいことなので受け入れようと思う。
深くはないが長いお付き合いをさせて頂いた。だからこそのこの訃報は大変急なことで驚き、未だに私のどこかに穴が空いている。
深い付き合いでもない私でさえそうなのだ。もっと連絡を取り合ってた様な方ならその心の穴は如何程のものか、知る由もない。
そこで私はその自らの穴を埋めるべく、この文章を書く。はっきり言って自らを俯瞰しない私文である。ご容赦願いたい。
尚、故人についての文章を書くにあたって私とmasaさんを巡り合わせてくれたアートエリアasi-paraの洋子さんに許可を頂いた。この場を借りてお礼申し上げます。
初めてお会いしたのはいつ頃のことか、それは覚えていない。しかしいつのまにか知り合いになっていた。
おそらくだが、私がasi-paraで初めて個展を開いたのが2006年で洋子さんは新参者の私にasi-paraに来られた作家さんを片っ端から紹介してくださった。
おそらくその時期だと思う。だから知り合って15年くらい経つだろう。
ただmasaさんの作品を拝見したのが先か、masaさんとご挨拶をしたのが先かと言われると記憶がやはり曖昧だ。曖昧だがmasaさんの顔を思い出すとセットで作品も思い出す。
もしやmasaさんの個展で初めてお会いしたのかもしれない。
作風は初めて出会った頃から一貫してパステルで丸みのある、朗らかな温かいイラストを描かれていた。
その相手に寄り添う優しい作風は徹底していた。しかし私がその良さとプロフェッショナルさを完全に理解するのには長くかかることになる。
asi-paraで知り合った方の半分以上はイラストレーターやデザイナーであり、私は美術の人間だった。
今では考えがだいぶ変わっているのだが、美術が自分の内側を広げる作業と解釈していたのに対してイラストなどは外側に向けた作業であり、私はそれに困惑したりした。なので私は勝手に壁を作って勝手に孤立していた時期がある。
ただ何度も知り合いの個展を見に行くたびにその壁は氷解していく。masaさんの作品もそうだった。
masaさんは私が個展をする時は必ず顔を出してくれて、私もmasaさんが個展をする時は見に行っていた。しかし「可愛い」ということはわかってもそれ以上のことは理解できなかったことは申し訳なく思う。
知り合いとしてのmasaさんとの付き合いは長いのだが、クリエイターとしてのmasaさんと初めて真正面から対峙したのは昨年11月のmasaさんの個展の時である。
私は改めてmasaさんの作品をまじまじと見たのだ。
一見一色だと思われていた空の色が実は何色も使われていたりする。部分によって厚みが違う。さまざまな技巧が使われているのに作品に重みがない。
何より徹底的に相手に寄り添う気持ちがこもっていてそこにプロフェッショナルを感じた。
なぜこんなにも付き合いが長いのにここまでじっくりと見る事をしなかったのだと後悔したくらいだ。結局、その個展を私は2回見ている。
そしてお会いしたのはそれが最後になった。
添付している写真は私の姉から送ってもらったものである。姉の子供が生まれた時に送って頂いた絵本とその後お礼にと姉が買ったポストカードである。
絵本は過去の姉とのやりとりから私が姉に渡した様である。何しろ6年前のことなのでそこも記憶が朧げである。
つまり私がasi-paraへ赴いた時に丁度masaさんが個展をしていたのではなかろうか。そこで洋子さんと三人で私の姪っ子の話をしているうちにmasaさんがプレゼントとして用意してくれたのではないか。
こんな大切なプレゼントなのに曖昧な記憶しかないのが書いていて申し訳ない気持ちでいっぱいだ。失礼ではなかろうかとドキドキしながら書いている。
ただ間違いないのは当時、姉とmasaさんとは面識がなく、私を通してお祝いを頂いたと言うことである。
知り合いの親族とはいえ、見知らぬ人の生まれた子供にお祝いをしていただけるなど何と優しい人だろうか。
思えばmasaさんの顔を思い出すと笑顔しか思い出されない。困った顔とか怒った顔とか寂しい顔を見たことがない。
ほんとに優しい方だった。歳は近いのだが私なんかより人間ができた人でした。
姪っ子にこんな優しい事をして頂いたのに作品を理解することも遅く、記憶も色々と曖昧な私はやはりこんな事を書いてよかったのかと文字が増えるたびに罪悪感が募る。
それでも私はもう会えないのだと思うとなんだかぼんやりとしてしまう。
実感がまだ湧かないのだ。またasi-paraに行ったら偶々お会いできるかもしれない。そんな気がする。
この際ずっと実感が湧かないままでいいかもとも思うが、どこかで区切りをつけなければいけないだろう。
このご時世が過ぎ去り、asi-paraで知り合った皆さんがまた集まれる時が来るといい。
その時は悲しみは熟成されて思い出になっている事だろう。
そしてその思い出に花を咲かせてみんなが笑顔になれればそれがmasaさんにとっても幸せな気がする。
改めて私とmasaさんを出会わせてくださった洋子さんにはお礼を言います。元気出してください。
写真を送ってくれた姉にもありがとうございます。
そして何より、たくさんの虹とたくさんの花とたくさんの笑顔を描いてたくさんの人を笑顔にしてくれたmasaさん。
たくさん色々とありがとうございます。どこか遠くて近い場所でそちらの皆様を笑顔にしてください。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

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