毒(短編)

やあ、初めまして、そして、さようなら。

会って間もないのにどうして「さよなら」か?

これはすべての始まりで終わりの物語。

飾り気など何もない、僕が愛すべき彼女に毒殺されるまでの物語だ。

*****

飲み会や食事会の次の日の朝は憂鬱だ。

酒を飲み過ぎれば頭がまるで自分のものではないくらいに痛くなるし、食べ過ぎれば若くない胃が暴れてくる。目が覚めても二度寝、三度寝、気がついたら夕方になっていた学生時代が懐かしい。

僕はタオルケットを跳ね除けて重い身体を起こそうと試みた。昨日タオルケットをかけて眠った記憶はない。それもそのはず、昨日は久しぶりの同窓会で、随分と遅くまで飲み歩いていた。家にたどり着いた記憶はある。

いつものように玄関を開けて靴を脱ぎ、ただいまと言いながらリビングに入る。リビングは玄関を入ってすぐ右側だ。ガラスの扉ごしに少しだけ中が見えていて、肌色のソファの一部だけがいつも出迎えてくれている。リビングに入ると、お帰りなさい!と声がかかる。彼女は僕の妻だ。そう、いつだって僕を優しく出迎えてくれる。

優しく……優しく……優しく……優しく……優しく……優しく……優しく……優しく……優しく……優しく……優しく……

ここから先の記憶はない。あのまま寝てしまったのだろうか?

寝間着を着ているのだからおそらく着替えたはずだ。風呂には入ったのだろうか?少し身体の匂いを嗅いでみる。

石鹸の匂いはしないが、汗臭いわけでもない。いったい俺は何をして、何をしていないのだろう。すっかり抜け落ちた記憶を埋めようと、寝起きにも関わらず、僕の頭はフル稼働だった。

「あら、あなた、起きたの?」

顔を上げると、そこには妻が立っていた。薄手の青いTシャツに白の上品なフリルがついたスカートを履いている。首からは彼女のお気に入りの薄いピンク色のエプロンがかかり、手慣れた生活感を感じさせる。

彼女とは結婚してもうすぐ5年が経とうとしている。以前は同じ会社に勤めていたが、結婚を機に退社した。実は8歳年下で、彼女とは新人研修で出会ったのが始まりだった。

初めて見た時から可愛い子だとは思っていた。まだ初々しさの残るリクルートスーツに身を包み、一所懸命に自己紹介をしていた。彼女を"女性"として意識したのは新人歓迎会の二次会の帰り道だった。飲み会だというのに、新人たちは全員スーツで参加していた。その年の新人の女性は3名だけだったこともあって、彼女が目立っていたということもあるかもしれない。当時、僕が一人暮らしをしていたマンションと彼女の帰り道が偶然にも同じ方向だったため、僕が送っていくことになったのだ。そこそこお酒を飲んでいたにも関わらず、ヒールで歩く彼女を僕は心配しながら歩いていた。「大丈夫、大丈夫です。」と言いながら彼女の足取りはふらついていた。そして事件は起こった。

目的地のマンションにほど近い道端で彼女が履いていたヒールが突然折れたのだ。ボキッっという音がして、僕は彼女の方を見た。すると、彼女は今まさに転けようとする瞬間だったのである。

僕は咄嗟に彼女を支えた……いや、嘘は良くない。僕は咄嗟に彼女を抱きとめてしまった。

弁解させて貰えるならば、あれは不可抗力だった。転けそうになる彼女の腕を取り、自分の方へ引き寄せたのだ。彼女は思いのほか軽かった。そして、すんなりと僕の胸の中に抱きしめられたのだった。

彼女の髪の匂いが鼻腔をくすぐった。今思えばあの瞬間には僕はもう彼女に惹かれていたのだろうが、咄嗟に「危なかったね」と声をかけた。

彼女は何が起こったか分かっていないようで少しの間、僕の胸に顔を埋めていた。僕はその間動かずにじっと彼女を抱きしめていたのだと思う。離そうと思えばすぐにでも離せたはずなのだが、僕にはなぜかそれはできなかった。

「あ、あのっ、ありがとう…ございます。」

彼女は僕の胸に抱かれながら少し上目遣いにそう言ったのだった。

そこから先の話は省略するが、世間一般、普通のカップルと変わらない。デートに誘い、2人きりで会うようになり、僕から想いを伝え、両想いだったことが分かった。付き合ってから結婚までは4カ月、僕の年齢が上だったこともあって、話はトントン拍子に進んでいった。あの美しいウェディングドレスからもう5年が経とうとしていた。

ここまで記憶を辿ってから、僕は妻に返事をした。

「ああ、起きたよ。おはよう。」

妻には昨日のことを聞かなければならない。

「昨日はごめんね。帰ってきてそのまま寝ちゃってたのかな?」

その問いかけに妻は笑顔で答えた。

「あなたが眠たいっていうから、着替えさせてあげたのよ。お風呂、入ってないからシャワーでもしてきたらどう?」

どうやら聞きたいことはお見通しだったようだ。この辺りは付き合っていたことから本当に変わらない。

「ああ、そうするよ。」

妻の声に後押しされるように重たい身体を引きずりながら、僕は浴室へと向かっていったのだ。

***

僕がお風呂から上がり、彼女が置いてくれていたお揃いの青地のTシャツと愛用している黒のジャージ(生地がうすくなってそろそろ妻には買い替えを勧められている)を着てリビングに戻ってくると机の上には透明なコップに入ったジュースが置かれていた。

これは妻お手製の「野菜ジュース」だ。

僕が飲み会や食事会で遅く帰ってきた次の日、妻はいつも僕のためにこの野菜ジュースを作ってくれる。薄いオレンジ色の層と、底には少し紫がかった層ができている。実は一度だけ妻にどのような材料で作られているのかを聞いたことがあるのだが、人参とオレンジ、紫キャベツくらいまで教えてもらったあたりで話が違う方向に行ってしまったことくらいしか記憶にない。口当たりが良く、一口飲むと身体の中から悪いものが洗い流されたような爽快な気分になるので、僕も毎回楽しみにしている。

しかし、僕だけは知っている。

彼女がつくる野菜ジュースには「毒」が仕込まれていることを……

***

その事実に気がついたのは3年前、あの日も僕は会社の飲み会で夜遅くに帰宅した。でも、次の日に思いのほか酒が残らず、寝起きも良かったため、普段通りに会社に行く時間にベッドを出た。枕元にあるスマホの画面は朝7時。会社もないのにこんな時間に起きたことを少し後悔しつつ、水分を求めてリビングに向かった。

ああ、妻はいつも同じベッドで眠っているのだけれど、妻の朝はいつも早い。大学時代にわりと厳しい体育会系の課外活動のマネージャーをやっていたこともあって、朝早く起きる習慣がついてしまったと言っていた。代わりに寝てしまうのも早く、深夜のドラマは録画して朝に見るタイプだ。

だから7時に起きた時に妻が横に寝ていないことを不思議に思うことはなかった。でも、その日はなぜかイタズラ心が働いた。

妻はきっと僕がこんなに早く起きてくるとは思っていない。早く起きたのは甲斐甲斐しく野菜ジュースを作るためだろう。そう、僕はリビングにいる妻に突然声をかけて軽く驚かせてやるくらいのつもりだった。

「おや?歌のようなものが聞こえる。」

僕がリビングに近づくと、中からか細い声で歌う声聞こえて来た。珍しい。

妻は歌は苦手なはずで、カラオケに行っても自分から歌うことはまずない。普段、ご飯を作っている時だって、お風呂にいる時だって鼻歌も聞いた記憶はほとんどない。

僕の背中に何かゾワッとしたものが走った。

「血迷った過ちに 気づいて泣き叫ぶがいい 張り裂けたこの胸な 甘えてごらんなさいな」

聞いたことのない歌だった。(あとになってCoccoのカウントダウンだと知る)

でも、歌詞だけがなぜか頭に残る。この歌は僕のためのものだ。誰の歌かも知らない歌だが、それだけは分かる。僕はリビングに入ることができなかった。

歌は続く、続く、続く、続く、続く、続く、ツヅク、ツヅク、ツヅク……………

歌いながら妻は動いているようだ。包丁で何かを切る音、いつも履いているスリッパが擦れる音が聞こえる。僕は聞き耳を立てながら、息づかいすら聞こえないようにドアの陰に立ち尽くしていた。

気づかれてはいけない。

本能がそう言っている。

どのくらいの時間そうしていたのか?
5分?10分?もう覚えちゃいないが、妻が歌を歌い終えるまで僕はじっと耐えていた。

ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ

ミキサーの音だ。どうやら野菜ジュースが最終工程に入ったらしい。この音が止まったらリビングに入る。僕はあの時なぜかそう決意を固めた。

ヴ………ヴ……ヴ…

どうやら止まったようだ。僕は意を決してリビングの扉に手をかけ…………

「あなたが悪いのよ?私だけのあなたでいてくれるって言ったのに。」

突然の声に僕の手が止まる。はっきりと聞こえる妻の声。さっきの歌よりずっと大きい声で聞こえる。

「あなたは私の夫、私だけのあなた、あなた、あなた、あなた、あなた、あなた、あなた、あナタ、あナタ、あナタ、アナタ、アナタ、アナタ、アナタ、アナタ、アナタ、アナタ、アナタ、アナタ。」

「うん、今日の野菜ジュースも美味しくできたワ。あとはこのお薬をいれてト。」

なんだ……何を入れた………

「アナタハワタシダケノモノヨ」

いや、聞かなくても分かる。

あれは毒だ。

身体に少しずつ溜まっていく毒なのだ。

僕が妻を傷つける度、僕が妻を悲しませる度、僕の身体には毒が溜まっていくのだ。

僕は今までどのくらいアレを飲んで来た?もう思い出せない、思い出したくもない、だが駄目だ、僕はアレを飲まないわけにはいかない。なぜなら彼女は「いつもの」野菜ジュースを作ってくれたのだから。

僕は決めた。

彼女には黙っておこう。知らなかったことにしておこう。彼女は何もしていない。そう何もしていないのだ。

僕は何気ない顔で(最大限に何気ない顔をしたはずだ)リビングの扉を開けた。心なしか扉を開ける音が大きかったかもしれない。

「おはよう。今朝も早いね。」

キッチンにいる後ろ姿の彼女に声をかける。

自然に、自然に、自然に、自然に、自然に。


僕は何も知らない、僕は何も聞いてない、僕は何も聞かない、僕は今起きた。

「あら、あなた、おはようございます。ちょうど野菜ジュースができたところなのよ。」

振り向いた彼女は、出会ったばかりの頃と変わらない眩しい笑顔で、手にはいつもの野菜ジュースを持っていた。

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