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街並みの中のライブハウス

どこの街の風景も同じような感じになって来てますよね。そう思われませんか?例えばJRの駅前。再開発の名の下に、画一的な容れ物になっているような気がしますが、これは僕の気のせいなのでしょうか?

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(↑建て替え前のJR灘駅)

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(↑渋い。渋過ぎる。)

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(↑よく写真を残しておいたもんです)

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(↑それがこうなりますからね)

薄っぺらいただの感想でしかないので、再開発の本質の部分は全然わかりませんが、去年1年間、THE TOMBOYSのツアーでどこの街へ行っても「あれ?ここはどこだっけ?」と思うほど、街の風景に既視感を感じてしまうことがすごくありました。だいたい同じようなサイズ感、だいたい同じような壁の色、だいたい同じようなチェーン店。

「当たり外れ」を考えるとチェーン店はとっても助かりますし、鳥貴族の大ファンを自認する身でもありますから、完全な批判ではないんです。その土地に行けば、その土地の「地のもの」を食べたいのは当たり前なんですが、そういったお店が隅っこに追いやられている、というか、見えなくなってる?ような感じがしている、という感じ。ネットで調べて、口コミ見れば、もちろん見つかるんでしょうけれど、なんか五感がそれを拒まざるを得ない雰囲気を、街自体がまとっているというか、、、。

ここ数年「ローカル」という言葉に大切な重みを感じる一方で、全然ローカルが成り立っていないように感じます。これが資本主義の結末なのか!!!大袈裟かな。。。

地震の多い国ですから、耐震について考えなければならないことも多々あると思います。ヨーロッパのように古いものをとても大切に使うという文化では成り立たないこともあるのかと思いもします。THE TOMBOYSのヨーロッパツアーで感じたんですが、それでも100年近く(?もっと昔なのかも?)昔に建てられた建物を、「便利だから」という理由だけでエレベーター付きの建物に建て替えたりせず、今も丁寧に使っているヨーロッパの文化には驚くと同時に、羨ましいな、と思いました。

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コンビニエンスストア。なければめちゃくちゃ困ると思います。めちゃくちゃありがたいと思っています。でも、街の中で何かのお店がなくなっちゃった時、「あぁ、またコンビニでも入るんかな」と思ったら、予想的中してしまう、あの感じ。コンビニ、あり過ぎじゃないですか?そんなに儲かるんでしょうか。。。18歳から3年ほど、新神戸近く、熊内町のローソンでバイトしてましたが、数百メートル行ったら同じローソンが2つも3つもあって、店長、クタクタでもう辞めた!と、数年前にリタイアしちゃいましたし。。

翻って、ライブハウス。

容れ物として、もうほとんどどこも変わらないのかも知れません。今後、ライブツアーがどんどん再開されて、同時に配信もやりましょう、となった時、演奏しているライブハウスは毎日変わっていくのに、配信ライブの様子を見てたらどこも同じような見栄えやん、、、な状況、簡単に想像できません?

「ライブハウスは人だ!」と叫んでみても、それを(物体としてではなく)画面に映し込むのは難しい。。。

結局その地域に居を構える地元アーティストの「特色」をライブハウスが一緒に模索していけるような、ミュージシャンシップに溢れた関係性を「音楽」として表現してもらうしかないような。。。

誰もが「右向け右!」になってる場合じゃない、と思い始めてます。大きな力はいつだって大きな力を持っていたいと思うのだろうけれど、その、我々からは見えない大きな力にすがろうとして歩み寄り、結果みんなが同じ顔になる必要なんて「どこにもないんだ!」と思うことは出来ないだろうか。。

やっぱり何か、始めなくちゃ。トライ&エラーを繰り返すしかない。やりたいことはもちろんやりたいけれど、やるべきことをやっておけば、道は開けるような気がしてます。「逆算」して「今」を決めなければ。。。


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