藤井健太郎論~悪意という愛~ その3

私は「悪意」が大好きだ。もっと詳細に言えば、「悪意」を道具にした笑いが大好きだ。
しかし、人によっては悪意で笑うことを病的に嫌う人もいる。
現実問題、あなたに嫌いな人はいないのだろうか?
どう頑張ってもあの人だけは生理的に受け付けないという人は誰だっているはずだ。

では、「好き」の対義語はなんだろうか、考えてみてほしい。単純に考えれば「嫌い」となるだろう。でも、本当は「無関心」が正しい。関心がない、つまりその存在は人の頭から消え去っているのだ。嫌いというのはあくまでも、その人になんらかの関心があるからこそ生まれ出るものなのだ。人間にとって一番恐ろしいものは無関心だ。関心を持たれないことは精神的「死」を現し、表すのだ。

悪意は愛情の裏返しとも言える。表裏一体のものである。
小学生の時に好きな女の子に素直に好意を伝えることが出来ず、意地悪をしてしまう。そんな感じに似ていると思う。
自分の好きな人の良いところを知ってほしいと思う感情は素直なものだ。では、好きな人の人間としてダメな部分を笑ってほしいは同義ではないだろうか。
人間の判断基準は意外にあいまいだ。良いと思う部分は様々なバリエーションがあるが、ダメだという部分は普遍的なものだ。
この普遍的なものを消化して、笑いに昇華したらこれは誰もがおかしくなってしまうものができあがってしまうのではないだろうか。(まぁ、実際のところは違っているけれど)

それがそういうわけにもいかないのが現実問題だ。
例えば、バラエティではよく見る罰ゲーム。この罰ゲームがいじめの増長になると批判をする人がいるようだ。
こんな意見は本当に信じられない。バラエティに出ている人間はいわゆる「笑いのプロ」である。罰ゲームのリアクションこそが彼らの腕の見せ所で、あくまで罰ゲームはそのためにきっかけの道具にすぎない。
実際に罰ゲームを模したいじめが横行したところで、それは罰ゲームではなく、「罰」になる。そこには笑いを生みだそうとする考えはなく、痛めつけることが目的になっているからだ。本質を突こうとして、誤った方向への議論展開は本当に恐ろしいと思う。

罰ゲームに限らず、この世に存在するものは誤った使い方をすれば、危険なものになる。美味しい料理を作るために材料を切る包丁も、対象が人間に変われば凶器となりうる。だからといって、包丁の販売が止められることはない。
どうして、メディアばかりがこうしてとんちんかんな正義感と的外れな正論で糾弾されてしまうのだろうか。本当に理解に苦しんでしまう。

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