藤井健太郎論~悪意という愛~ その2

テレビ番組だけではないのだが、創作にとって最も重要なのは、自分が良いと思ったものを周りの意見・常識・ルールなどに屈しないことである。
本当に表現したいものに自らブレーキをかけると、面白いものも面白くなくなってしまう。私は中学時代に陸上競技をやっていたのだが、顧問に「良い記録を出すには、ゴールよりも10メートル先をゴールだと思うことが大切だ。」と教えられた。白線が引いてある場所がゴールだと思うと、人間は不思議なものでそこまでの力しか出そうとしなくなるのだ。
表現も同じものではないだろうか。

また陸上競技の話になってしまうが、陸上競技は一部を除いて自分との闘いであるものがほとんどだ。もちろん競技であるがゆえ、順位も大事な要素ではあるけれど結果というものは後々ついてくるものだ。
いかに過去の自分を越えようとするかということは陸上に限らず、どんなことにも言えるだろう。もちろんベストスコアを出すことが一番いいことであることに間違いはない。
けれども、その時の自分がいかに本気で自分自身と闘えたか、過去の自分を越えようとしたかが何物にも代えがたい。また、「情熱」や「努力」は不思議なもので、自然と人へと伝わっていき伝播していく

藤井健太郎氏は究極的に自分が今、一番面白いものを作るために最前線で戦っている。もちろん人間であるから、いつも面白いものを出していけるわけはない。
「水曜日のダウンタウン」の一視聴者である私も「今週はいまいちだったな」と思うこともある。しかし、だから来週は見なくてもいいという考えにはならない。挑戦していこうとする姿勢はテレビを通して、言わずもがな伝わっていくものなのだ。

周りが何と言ったとしても、自分が面白いというものを表現する。その表現に同じく面白いと思って協力する者がいて、その表現を待っている者がいる。それだけで十分ではないだろうか。

わざわざ大きな声で批判や罵倒をしていく人間にこびへつらうことは必要ない。ただ、待っている人たちに「また、世間から怒られちゃいました」と茶目っ気たっぷりに挨拶できるくらいに度胸と器量を持ち合わせるべきだ。テレビよ、批判に負けるなとエールを送りたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?