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心の“輪っか”

これは、半年以上も下書きで眠っていたもの。
まるで巣立ちの時を待っていたかのようだ。



心というのは輪だ。ひねりのある輪だ。メビウスの輪のようなものをイメージしてほしい。ひねりは1個とは限らないけど。


人が生きるのに心は必要だ。人生はこの心の輪のその表面を歩くようなものだ。そして人は自分が歩く道こそはただまっすぐあるものと思っている。

あなたの心の輪はどんな状態かな。そしてどんな道かな。曲がったりアップダウンがあったりと、平坦な道を想像出来る方は少ないかもしれないけど“裏返っている”と思う人はいるかな。

自分が見て感じて考えていることが“裏返っている”という認識をもつ人は多くないと思う。この裏返るというのは、単純に反対のことを考えるとかそういったことを指すのではなくて、自分の違う面が出るということだ。

論理的で整合性のとれた言動を常に選択できていると思っていても、それはその人自身の意識においてのみのことだ。たとえば、今この文章を読んで「いや、それはおかしい」と批判的に思っても「ひょっとするとそうかもしれない」という感覚に抗えないということは、ある事だと思っている。

そして、この文章を読み続けるかどうかを決めるのが、先程の二つの考えのどちらを基にしているかを答えられるだろうか。もちろん別の理由だって考えられるし、別に決める必要もないのだけどね。

私は、自分の考えと言動が完全に一切のズレなく合致していると絶対的に答えることができる人間などいないと思う。そして、それが出来ていると認識していても、それはその人の中だけの話だ。その人にとっては裏も表もない自分そのものだが、他の人がそれをどう受け取るかはわからないってこと。

いつもと同じようにしているつもりでも、他者にとっては変わったと思わせることはある。

逆に、自分が二面性のある性格だなと感じるとしても、結局それ自体も自分という心の輪をそのように認識しているに過ぎない。自分ですら、何処からが表で何処からが裏なのかは絶対にわからないくせに、だ。だから皆、平坦な道を歩いているようで、少しずつ裏かえっていく。さて、どこまでが表でどこからが裏かな。

まあでも、裏返ったとしても閉じた輪であるからまた表側に戻ってくる。で、結局どっちが表かを決めるのは誰かな。いや、もうそれはいいか。


裏かえっていくのは、他者からみたら違和感がある事が多いと思う。敏感な人なら感じとることはできるだろう。

人との関わりは心の関わり。輪っかを並べてそれぞれの表面を歩いているようなものだ。隣にいたと思っていた人や、この人は「こういう感じの人」と漠然と考えていた人が、いつのまにか裏返っている。同じ方向に進んでいたと思っていた人が突然見えなくなったり、全く違う方向を見ていたりするわけだ。

当然ながら、心の輪の裏返り周期もひねりの回数も人によって全然違う。ひねりの回数が奇数回だったらメビウスの輪状態になって、周期があっていても反対側の面にいる。次に合うのは何周後かな。

その裏返りも含めてちょうど合うっていうのが、心地いい関係性なのかもしれない。あるいは、織姫と彦星のように、年に一度しか合わない周期でも、そのタイミングだけぴったり嵌ることに価値を見出すのかもしれない。これはこれで素敵かな。


ところで、世の中には無理して他人に合わす人がいる。

きっとこの人達は、相手の周期がなんとなくわかるから、その人とズレてしまうことがわかったら、自分の道を相手の周期の裏返り具合が揃うまで全力ダッシュして調整してしまうんだと思う。当たり前のようにそうしてしまって、疲れてしまうんじゃないかな。

相手が一人ならいいけど、これが複数人となると大変だ。こっちに合わせて、あっちに合わせて、いつまでも全力疾走しないといけない。多くの人といるのが苦手なタイプな人のうちにはこんな感じの人もいるかもしれない。

無理に合わせようとしなくても、意外とうまく嵌ることもあるんだけどね。


人は気づかないうちに裏返る
ぱちりと合う輪を求めて
平坦な道を今日も裏返る
でもそれこそが
裏も表もないあなたじゃない?




投稿にあたり追記

これは確かHSPについて考えていた時の記事。でも今はそれだけのための記事ではないとも思える。


人を観察していると、大なり小なりその人の次の言動は予測できるもので、当たることも外れることもあるけど、大きく外すことはあまりない。と言っても、たまに予想だにしない反応をすることもある。戸惑うほどではないけど、違和感は覚える。

それは、こっちから見たらそれこそ裏返っていると思えるほどいつもと違う気がするのに、当の本人はそんなこと意識もしていないから。当然その変化に驚いているのは、観測者たるこちら側だけだ。

仮に、観測者のこの私の道も相手と同じように裏返っていたとしたら、きっとそれをそうとも気づけないんだろうけど、その二人を俯瞰して見てみると、同じ方向に一緒に曲がって行っているのかな、とか思ったりもする。それは、レースゲームをプレイしていて、カーブを曲がろうとして体も一緒に傾けてしまうようなアレを見ているみたい。二人とも傾いてるからその時はどちらも傾いてることに気付かなくて、先にカーブを抜けたほうが元に戻って気付く。
「お前、傾いてたぞ」
「お前だって傾いてたぞ」
なんて和やかな風景だろう。なんて意味不明な文章だろう。でも、古い記事を掘り起こしたのは、きっとこの文章を書きたかったからだろうな。

人を観るのは面白い。一緒に傾くのも、傾きを見誤って頭ゴッツンコするのも楽しい。合わないと思っていた人とピッタリ嵌る瞬間には心躍る。もちろん、合うなと思っていた人と合ったり合わなかったりを吟味していくのも楽しい。

だから、合う周期を探して全力疾走することを私は辞めないし、ひねり除去工事をすることになっても一向に構わないとも思っている。

何が言いたいのか自分でもよく分からないのは、いつの間にか裏返ったからかもね。

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