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誰が何を伝えるか 何がどう伝わるか どうすれば誰もが幸福か

 先日、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんが亡くなった。自殺と見られるようだ。
 自殺報道による連鎖自殺が問題視されるようになり、報道のあり方などについて問われるといったことも昨今は多く見受けられる。実際、本件でもマスメディアが厚労省からお叱りを受けたようだ。


 私が特に気になったのは、マスメディア以外のSNSなどでの個人による発信や発言に関しても看過できない事態になりつつあるということだ。インフルエンサーやら人気ユーチューバーはもちろん、匿名の個人でもそうだろう。また、社会がその状態を問題視して対策に乗り出す機運が高まっていることにも注目している。

 そんな中、上島竜兵さんの件に関連して、影響力のある人の一人のひろゆき氏が「死にたい人は死ねば良い」と発言をしたようだ。この部分だけの切り取りでは正しく意味が伝わらないので、ツイートを引用しよう。


 言いたいことはわかるし同意する人も多そうだ。私も、死ぬという選択をした人のことを止める権利は誰にもないと思っている。せいぜい、死んでほしくないという自分自身の気持ちを伝えることしかできない。場合によっては、この気持ちを伝えることすら憚られることもあるだろう。
 そのため、今まさに自殺しようとする人を止めることはすべきではないと考えているが、それ以上にすべきではないと考えているのは自殺を促す行為だ。(ひろゆき氏はこのツイートでは自殺を美化することが自殺を促す要因の一つとしているようだ。)
 自殺するのを引き止めないことや容認することと、自殺を促すことは全く違うのはご理解いただけるだろう。

 自殺を促すというものの中には相手を誹謗中傷することも含まれる場合がある。そして、個人が発言した言葉が自殺を促した(可能性がある)ということで思い起こされるのは、女子プロレスラーの木村花さんがネット上の誹謗中傷を苦に自殺した事件だ。


 この事件を発端にして、今夏法案が通りそうな「侮辱罪厳罰化」という議題がある。今まで罰が軽かった侮辱罪を名誉毀損罪と同程度に厳罰化することで、問題となっているネットでの誹謗中傷による自殺を抑止する目的で施行される見込みだ。

 私としては、反対する理由がないので厳罰化されることは構わないと考えているが、厳罰化が自殺の抑止力として働くのはごく僅かにとどまると考えている。これには、実際に取締りを行う警察の問題や侮辱の範囲の問題や、法自体の運用の問題など多くの観点から問題があることが理由だ。厳罰化したところでネットでの誹謗中傷による自殺は減らないと考えている。

 厳罰化に対する私の最大の懸念は、仮にこの厳罰化が形骸化しなかった場合に、むしろ取締りが行き過ぎることで、処罰対象になることを恐れた人たちがどういう行動をするのだろう、というところにある。

 法律で縛っても人の心まで縛ることはできない。誹謗中傷となるような発信をしたいという意思に介入などできない。表現の自由や内心の自由を笠に着て自由気ままに発信していた人たちから、その場(ネット)を間接的にとりあげることで、その人達の心に溜まった澱みはどこに吐き出されるのだろう。
 他のSNSよりも比較的おだやかとされるこのnoteにおいても、そういった澱みは散見される。そこに攻撃性がはらめば、それは侮辱罪の対象となることもあるだろう。

 noteよりももっと大きいプラットフォームとして、前述のひろゆき氏がつくった大型掲示板や動画投稿サイトなどがある。毒を吐き出すにはうってつけの場所だ。
 いずれも社会的な問題になったり事件のきっかけになったこともあり、むしろその場が原因で自殺をした人もいるかもしれない。しかし、その場に救われた人たちがいるであろうこともまた否定できない。

 人びとが自由に意見し、溜まった毒を小さく吐き出すことで”保っていた”人間や社会があるとすれば、吐き出せず濃縮した毒を溜め込むことでどんな悪性変化が起きるのだろうか。下手をすれば自殺を抑制するどうこうの話にとどまらないかもしれない。


 いずれにせよ、毒は生成されないことが望ましい。それは無理でも、問題になる前に無毒化出来ればいい。
 せっかく我々はネット空間という素晴らしいものを構築したのだから、使い方をよく考えて問題があれば議論し改善していくべきだ。これは、マスメディアやインフルエンサーや個人といった影響力の強さで別々に捉えることではない。それぞれの立場や視点でより多くの人が幸福に近づいたり、あるいはデトックス出来るようにすることで、法律の力に頼ることなく住みやすい社会になることが理想だと、私は考える。

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