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私は(   )同性婚には反対です

記事タイトルの括弧の中について語ります。あくまで私の価値観と意見のお話で、対立する考えをお持ちの方を批判するつもりはありませんが、不快に感じることは多いと思いますのであらかじめご了承ください。最後まで読んでいただければ印象は変わるかも知れません。




先日、アメリカ大統領が同性婚に関する法案に署名しました。その際にこんな発言をしているのでニュース記事より引用します。

米国のジョー・バイデン大統領は13日、同性婚や人種の異なるカップルが結婚する権利を保護する法案に署名して成立させた。

大統領はホワイトハウスの庭園で開かれたイベントで、LGBTQ(性的少数者)の活動家など数千人の招待客を前に「結婚尊重法案」に署名。「結婚は単純な問題だ。自分が誰を愛するか。その愛する相手に対して誠実であるか」「それ以上複雑なことは何もない」と強調した。

その上で、「政府に干渉されることなく、自分自身でその問いに答えを出す権利」を認めるため、また、連邦政府によるその結婚の保護を保障するため、法案に署名すると語り(後略)

出典:CNN

ああ……。

私はアメリカの結婚に関する法律や価値観は知りませんのでそもそも的を射た批判をすることはできないのですが、引用の太字部分の発言が個人的に大問題です。

結婚って、愛を証明するものですか?
愛って、そんな形に入れ込まないと保てないような脆弱なものですか?
誠実であることの証明が結婚という形ですか?

そんなもんか。いやでもきっとこれが一般的なんでしょう。だからその入れ物に押し込んだ愛と名前をつけたものが、その入れ物に生じた小さなヒビから漏出して無くなってしまうんでしょうね。そして離婚したり仮面夫婦を続けたりするんでしょうね。実に程度の低いものです。動物の方がよっぽど質の高い愛を持っている気がします。だって彼らにはそんな入れ物は無いのですから、無くても成り立っているのですから。本能だとか知能が低いからだとか、そんな言葉で片付けられない関係性が彼らの中にもある気がします。

ですから私は、この言葉に賛同する人の声を受け入れられません。そんな目的のために、結婚という社会制度があるわけではないのです。結婚に愛は必要ありません、紙切れ一枚の契約でしかないはずです。必要条件でも十分条件でもありません。

ちなみに契約でしかないというのは、同性愛、異性愛、どちらの指向者にも言えることです。契約とは、権利(と義務)を明確にするためのものです。

私は結婚していますが、その理由はその方がこの社会で生きるのに有利だからです。そうでなければ結婚する意味などないです。有利になること、つまり権利が発生しなければ結婚していません。ただし、仮にそれがなかったとしても私は妻と生活しているでしょう。そこには愛があるからです。


同性婚を求める(当事者の)方の意見として、結婚と同等の権利が欲しいと言う人がいます。これは理解できます。そして、こういうことを言う人は既にパートナーとの間に愛がしっかりあるのだと思います。この場合なら、同性婚を認めてほしいと言うのは分かりますが、私に言わせれば順番が間違っています。

求めているのは結婚に付帯された権利であって、必ずしも結婚という形ではないはずでしょう。なのに、一足飛びに同性婚を声高に叫ぶ(叫ばせられる)。論点をすり替えて愛だのなんだののエモーショナルな発言をして、無関心な大衆にそれっぽいことを吹き込んで支持を得る。どこぞの調査で若い世代ほど同性婚に賛成しているというアンケートも見ましたが、賛成しているのでなく、どうでもいいと思っているのがほとんどではないかと思ってしまいます。「(自分は異性婚するつもりだし、他の誰かが同性婚しようがどうでもいいけど、好きな人と結婚できる方がなんとなくよさそうだから)同性婚は賛成です」くらいなものではないか、と私は疑ってしまうのです。それがダメだとは言いませんが、不誠実であるとは思います。

何のために、同性パートナーシップ制度があるんでしょう、認めさせたのでしょう。結婚という形ではなく、結婚でしか得られなかった権利を一つずつ勝ち取っていく、その権利の必要性を社会に問うて、それをどんな関係性にでも等しく与えられるべきだということを訴えて認めてもらっていく。それが出来るのは、愛をちゃんとわかっている人たちで、愛し合っている人同士が結婚できるのは当然の権利だ、なんて短絡せずにしっかりと物事を考えられる人たちで、その人たちが切り拓いた確かな道だったんじゃないの?と、私は思うのです。それは険しい廻り道でしょうが、目の前に立ち入り禁止の札が下がっているならば、その札の理由を尋ねたり無理矢理剥がすよりも、廻り道をしてでも山頂を目指しませんか。


私は今の日本社会の流れでの同性婚には反対ですが、異性婚と同等の権利が同性パートナーシップ制度に認められることは支持しています。そうであれば、憲法の解釈がどうのなどの場外戦を繰り広げる必要性は必ずしもなく、諸問題について精査し、より良い方法を模索できるのではないでしょうか(法律は詳しくないので、憲法レベルでの改正が絶対に必要なのかも知れませんが)。

そして、最終的には同性婚と同性パートナーシップ制度は名前が違うだけでその意味は全く同じものになるのが理想でしょう。でも、そうなるには順序を守る必要性と多くの時間と過酷な戦いは避けては通れないと思うのです。同性婚を認めることによる諸問題を置き去りにして、無関心な大衆をアジテートして成立だけを目指そうという流れに(私には見えて)危機感を覚えます。嫌悪感も覚えます。


まとめると、結婚というのは、そこに愛は必要なく紙切れ一枚のただの契約です。その契約には病院での付き添いや相続などの権利が付帯しています。ただし、その契約は現状、色んな問題があるため(あるいは想定されていなかったため)異性間でしか結ぶことを認められていません。この状態を同性間に置き換えて、同性婚自体を認められるように時流に任せて行動するよりも、結婚に付帯されている権利を同性間にも適応されるように行動したほうが合理的かつ誠実ではないか、という主張となります。(個人的には同性婚違憲訴訟における東京地裁の判断と近いものと考えています。)そして、この文章を読まれた方がご自身の考えを深めることが出来たのであれば、賛成でも反対でも価値あるものになると思い、この文章を綴っています。(私の意見を押し付ける気はありません、ということです。)

また、私は同性婚制度の悪用による不幸となる人の総数が増えかねないことを特に懸念しています。私の浅知恵でも重犯罪への悪用(それは異性婚間でも発生し得ますが、着手の容易さと潜在的被害者、潜在的加害者の数が段違いです。)をいくつか思い付きますが、それらの穴を塞ぐ議論はされているのか疑問です。そして、数の問題ではないのは承知していますが、同性婚が認められることでしか幸福を感じられない人よりも、社会的な損失や新しく不幸になり得る人の方が多いと考えますし、特にまだ生まれてきていない子供についての懸念は過去記事でも取り上げた通りです。法整備等が不十分なまま話が進むのはやはり怖いな、と思います。

そして、その悪用が実現された時、批判を浴びるのはその時を生きる当事者達でしょう。支持していた無関心な大衆は手のひらを返すでしょう。そこに必要のない不幸が生じる、そういった懸念もあります。また単純に、個人の欲求や願望を叶えるために社会全体に不利益をもたらしかねないのを無視するのは正しいことか、という思いもあります。
(突き詰めるとこの問題は、個人の幸福の実現と社会(制度)の安定という二つの観点の争いとなり、同性パートナーシップ制度の権利の拡充等で妥協点を見つけるしかないと考えています。)

とはいえ、当事者の方々に現状のまま我慢しろと言っている訳ではありません。声を上げなくては変わるものも絶対に変わりません。ただ、海外では出来るのに日本は遅れている、などの本質とは無関係な意見に流されずに慎重に進めて行ってほしいと思っているだけです。


以上、アメリカ大統領のコメントに触発されて?憤慨して?持論をまとめてみました。


誤読されてしまうと心外ですので補足しておくと、私は同性愛等を否定するつもりはありません。異性愛も同性愛も等しく、誠実な愛であるかという土俵で見ます。それは入れ物が必要なものでもないですし、当事者の二人以外に認めてもらう必要もないものです(婚姻関係を結ばずとも愛し合う関係というのは観念できます)。ですから、結婚出来ないからといってそこにある愛を疑う必要もないですし、結婚しなければ幸せになれない、なんていう価値観もおすすめしません。二人が愛し合っているその事実に幸福を感じられることが何よりも幸福でしょう。

「自分が誰を愛するか。その愛する相手に対して誠実であるか」

結婚という言葉が入らなければ、良い言葉です。

私は、同性婚が認められることを望む当事者の方たちをも愛せる(無関心ではいられない)からこそ、誠実にこの問題に向き合うべきだと考えます。無関心な大衆にもそうあって欲しいと考えています。

だから私は(そうなっていないと私が感じる現状で決を採るならば)同性婚には反対です。

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